1、守城戦の責任者

 『墨子』号令篇において、守城の最高責任者は「王公」と設定されている(注1)。


吏卒民多心不一者、皆在其将長。諸行賞罰、及有治者、必出於王公。数使人行、労賜守辺城関塞、備蛮夷之労苦者、挙其守卒之財用、有余不足、地形之当守辺者、其器備常多者。


【吏卒民の多心にして一ならざる者は、皆其の将長に在り。もろもろの賞罰を行い、及び有る者は、必ず王公に出づ。しばしば人を使て行きて、辺城関塞を守り、蛮夷に備ふるの労苦者に労賜し、其の守卒の財用の有余と不足、地形のまさに辺を守るべき者、其の器備の常に多き者を挙げ使む】


 これによると「王公」は度々人を派遣して「辺城関塞」の守備状況を確認させ、その装備を整える義務があった。ここから、ここで示される「王公」は領土国家の君主としての性格を持っていることがわかる。このため「王公」は号令篇の中では城内にはおらず、実際の城内での「吏卒民」の心を統一して守城戦を指導するのは城内の「将長」(「城将」とも表記される箇所もある)とされた。「将長」は「王公」に賞罰の権限を委譲されて派遣された「守」が担当した(注2)。「守」の地位は「令」つまり県令を中心とする平時の行政組織よりも上位に置かれていた。このことは次の史料から窺うことができる。


而勝囲、城周里以上、封城将三十里地、為関内侯、輔将如令賜上卿、丞及吏比於丞者、賜爵五大夫、官吏豪傑与計堅守者十人、及城上吏、比五官者、皆賜公乗。男子有守者、爵人二級、女子賜銭五千、男女老小无分守者、人賜銭千。復之三歳、無有所与、不租税。此所以勧吏民堅守勝囲也。


しこうして囲に勝つこと城の周理以上なれば、城将を三十里の地に封じて関内侯と為し、輔将しくは令は上卿を賜ひ、丞及び吏の丞に比する者は、爵は五大夫を賜ひ、官吏豪傑のともに堅守を計る者十人、及び城上の吏の五官に比する者、皆公乗を賜ふ。男子の守有る者は、爵は人ごとに二級、女子は銭五千を賜ひ、男女老小の分守き者は、人ごとに銭千を賜ふ。之を復すること三歳、あずかる所の有る無く、租税せず。此れ吏民の堅守して囲に勝つを勧むる所以ゆえんなり】


 ここでは、論功行賞の際「城将=守」が「令」よりも先に褒賞の対象として記され、「令」よりも上位者であることが示されている。このことは「令」が「輔将しくは令」と、「輔将」という「守」とともに城に派遣されてきた副将と併記され、褒賞も同等であることからも確実であると判断される。

 さらに次の史料から、「守」が「令」に対しての処罰の権限を持っていたことも推測できる。


令丞尉亡、得入当。満十人以上、令丞尉奪爵各二級、百人以上、令丞尉免、以卒戍。諸取当者、必取寇虜乃聴之。


【令丞尉はぼうあれば、とうを入ることを得る。満十人以上なれば、令丞尉の爵を奪うことおのおの二級、百人以上なれば、令丞尉は免じ、卒を以てまもる。もろもろの当を取る者は、必ず寇虜こうりょを取り、すなはこれゆるす】


 これは兵卒の逃亡に対して「令」とその下位職にある「丞」「尉」が負う責任と罰則事項及び免責条件についての規定である。ここに「守」の名前がないことから、「令丞尉」にこれらの責任を負わせていたものが上位者である「守」であったと考えることができるだろう。

 以上から『墨子』号令篇では、「守」(「将長」「城将」とも表記)は「令」の上位に置かれた守城戦時の城内の最高責任者であり、その賞罰の権限は城外にいる「王公」から与えられるものと設定されていたことがわかる。




(注1)本研究では孫詒譲『墨子間詰』をテキストに、岑仲勉『墨子城守各篇簡注』、山田琢『墨子』を参照する。引用した史料はそれぞれの考証に従って一部文字に校訂を加えている。

(注2)「守」は「太守」であるとされ、漢代では県の上位の行政区分である郡の長官である。ただし漢代より以前の戦国時代に編纂された『墨子』において、「守」が漢代の「太守」と同様の職責を有していたかは不明である。

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