第2話
それから、、、。
お母さんはすっかり変わってしまった。
朝起きてから夜寝るまで、僕のことをののしり続けるようになった。
「ふとんくらい自分で片付けてよ。」
「ご飯終わったらちゃんと片付けてよ。」
「なんで言わないと宿題もやらないのよ。」
「洗濯物を脱ぎ散らかさないで。」
「これ以上、私がやることを増やさないで!」
言い方も説き伏せるようなそれまでの感じとは違い、金切り声に近い、不快な声で文句ばかりを言われ続けた。
ひとしきり不満をぶちまけると、しまいには、タケルは何もやってくれない、何も助けてくれない、、、と泣き崩れた、、、。それが僕にとっての毎日の生活となった。
「僕がお母さんを助けなければいけないってこと?」
それが求められているんだとはわかった。
それでも僕は何もできなかった。
生まれてからずっとお父さんとお母さんに助けられる存在であることに甘えていたせいか、「自分は助けられる存在」であって「親を助ける存在になる」という理解が追い付いてこなかった。
自分にとっての親は、常に絶対的なものであって、自分が親を助けるなんて発想はなかった。
自分が母親に何もしてあげられないというふがいなさと、いまの状況を受け入れられていないことに対して、僕はとても悲しい気持ちになった。
それは涙が出るような悲しさとは違う、やりきれない悲しさだった。
ある晩のこと。
僕はなかなか寝付けなかった。
目をつぶり、布団の中に足を伸ばしたままじっとしていた。
普段だったら気付かないうちに寝てしまうことが多かったが、その日は一向に眠くならなかった。
親戚のおばさんが言っていた「頑張ってね」というのはお母さんを助けてあげて、という意味も含まれていたのかもしれない。でも僕がお母さんを助けられることなんてあるんだろうか。
僕の頭の中はグルグルと回っていた。
隣を見ると、疲れ切った顔をしたお母さんが寝息を立てていた。
僕はしずかに体を起した。
台所の手前の引き出しを開け、お母さんの財布から3万円抜き取り、静かに荷物をまとめた。
「お母さん、ごめんね。」
「でも、僕がいなくなればお母さんは楽になれるからね。」
そう心の中で話しかけながら、音がしないように気をつけながらマンションの扉をゆっくりと開けた。
ゆっくりとマンションから駅まで、夜明け前の真っ暗な道を歩いた。
駅の改札口の前で柱の下に腰かけ、始発が動き出すのを待った。
どこにも行くあてはなかった。
何故だかわからなかったが、その日、僕はとにかく海が見たくなった。
青い空と青い海の中に溶けてしまいたくなった。
いくつかの電車を乗り換え、海辺を走る電車に乗った。
ようやく太陽が昇り始め、僕は車窓から海を眺めていた。
電車は山の中腹を時速30kmくらいでゆっくりと走っていた。
窓からは海が見えた。
海は300メートルほど下にあるようだった。
9月の太陽の光を受けた波は、キラキラと不規則に光をまき散らし、海の上で天使たちが楽しそうに踊っているように見えた。
「もっと近くに行きたい。海に触れたい。」
僕はその思いに掻き立てられて、次の駅で電車を降りた。
駅には「佐美川駅」という看板が出ていた。
そこは今にも朽ち果てそうな木造の無人駅で、「券はこちらへ」と書かれた箱が改札口付近に一つだけ寂しく置かれていた。
箱には小さな錠前がついていた。
僕はチケットも出さずに改札を通過すると、海へと下る、蛇行したけもの道を無心で歩き続けた。海はすぐ近くに見えたはずなのに、いつまでたってもたどり着かなかった。
それは、手を伸ばしても届かないところに行ってしまった、お父さんの背中のようだった。
1時間ほど歩いただろうか。
ようやく前後左右に密集していた木がまばらになって道の傾斜も緩くなったかと思うと、突然地面が平になった。
木々の間からキラリと光った波が見えた。
抜けると、小さな漁港が現れた。
防波堤が真ん中にトンと直角に突き出て、
その両側には小さな漁船が2隻ずつ停泊していた。
僕は、漁港の手間にポツンと立っていた自動販売機でお茶を買い、防波堤の先端までゆっくりと歩くと、船のロープを巻きつける鉄パイプのようなところに腰かけた。
僕は遠くの海を眺めていた。
全く見知らぬ漁港で、自分は一体何をしているんだろう、と考えながら、ただぼーっとしていた。こうやって遠くを見ていると焦点が遠くに行くから目が良くなるかもしれないなんてわけのわからないことを考えながら、、、。
しばらくそこに座っていると、遠くから男の人たちのザワザワした声が聞こえてきた。
僕は咄嗟に止まっていた漁船に飛び乗った。
こんなところに小学生が一人でいるところを見られるとまずいし、怒られてしまうかと思った。
操縦席の後ろのあたりに扉があるのを見つけると、急いでその中に隠れた。
そこには掃除用具やバケツが置かれていた。
きっと、船の物置のような場所だと思った。
じっと隠れていると、トントン、トントンと音がして船がグワングワンと揺れた。
どうやら、さっきの男の人たちが船に乗ってきたようだった。
ブルンブルン、トットットットットット、トトトトトトトブルルルルルル、とすぐに船が動き出した。
「まずい、このままだとここに隠れていることがバレちゃう。」
僕は、小さな真っ暗な物置の中で足を抱えてじっと下を向いていた。
30分ほどすると、ガンと何かに当たる音がして、船が止まった。
トトト、、、トトト。
どこかについたようだった。
外から男たちの声が聞こえてきた。
「ここはな、ときどきタイの大群がやってくんのさ。」
「今日はどうかわからんが、見てくっべ。」
彼らは話をしながら船から降りていった。
僕は少し待ってから扉を少しだけ開けると、船が大きな岩の横にロープでくくりつけられているのが見えた。近くに男たちの姿は見当たらなかった。
僕は少し安心しつつも、おそるおそる船から降りた。
テトラポットくらいの大きさの岩が並んでいて、その先はちょっとした森になっていた。
真っ暗な森に入るのは怖かったので、僕は、その岩と岩の間の隙間に隠れることにした。
2~3時間ほどして男たちが戻ってきた。
「今日ははずれだっぺな。」
「まあ、こういう日もあるさね。」
一人はおじいさん、もう一人は30歳の男の人だった。僕は大人の年齢が良く分からなかったけど、学校の先生と同じ年くらいに見えたから、きっとそれくらいだったと思う。
二人の顔は良く似ていたので、もしかして親子かもしれないと思った。
二人はトントンと船の上に飛び乗ると、岩に巻きつけたロープをはずして、トトトトト、ブルルルルルと音を立てながら島から出て行ってしまった。
なんだかあっけなく、そして僕は自由になった。
「良かった、見つからなかった。」
ホッと胸をなでおろした。
船が着いていた岩場の右側は砂浜になっていて、その先はまた岩場になっていた。
岩場の上は崖で、その上には小さな山が見えた。
一人で見知らぬ島にいるなんて。
僕は少しだけワクワクしていた。
とりあえず、僕は島を一周してみることにした。
島は1時間ほどで一周できる大きさで、感覚的には代々木公園と同じくらいかと思った。
次第に日が傾き、夕日が見えてくると、僕はとたんに不安な気持ちに駆られた。
おなかがすいてきたし、お茶も飲んじゃったし、明日からどうやって生きていけばいいんだろう。今日寝るところもないことにようやく気付いた。
生きていけるかという不安。そんなことを感じるのは初めての経験だった。
「そうだな。」
僕はひざをポンとたたいた。
一旦、不安になることを考えることをやめた。
僕はお母さんを楽にするためにここにやってきた。
明日から一人で生きていくことを考えていけばいい。
僕は砂浜にタオルを敷いてそのまま横になった。
星がとてもきれいだった。地球が丸く見える、、、と思っているうちに、いつの間にか寝てしまった。
そして、僕は夢を見た。
「ねぇ、タケル。」
丘の上の洞窟から顔を出した女の子が僕に手招きをしていた。
肩まで伸びた髪の毛がとてもきれいだった。
「タケル、ねぇタケル。」
その子の声には聞きおぼえがあった。
良く聞くと、お母さんの声にそっくりだった。
僕はなんだか安心した気分になって目を開けた。
ザザーン、と波の音が聞こえてきた。
そうか。
ここはどこかもわからない島なんだ。
そして僕は一人ぼっちだ。
僕は考えた。
とにかく、今は頼る人なんて誰もいやしない。なんとかしなきゃいけない。自分の力でなんとかしなきゃいけない。
僕は体を起して伸びをした。
「まずは飲み物だな。」
飲み物さえあれば人は1週間生きられる、とどこかで聞いたことを思い出した。
昨日島を一周する途中にたしか小さな川があったはず。
そこにいけば水があるはずだ。
僕は川まで歩き、海に向かって流れ出る1mくらいの幅の川を上流に向かって歩いていった。沢を登れば湧水があるかもしれないということはわかった。意外とアイディアかもしれないと思った。
10分ほど登ると、川の幅は10cmくらいになった。
前を見ると、小さな岩と岩の間からトクトクトクと水があふれ出ていた。
僕はそこにペットボトルを突っ込み、満タンにして水を飲んだ。
「ふー。」
しばらくぶりに水を飲んで、少し気持ちが落ち着いた。
とりあえずここまでは何とかなったかもしれない、と少し安心した。
左側に目をやると、木々の間から山の頂上が見えた。
「ここまで上がってきたのか。」
と考えていると、僕ははっとした。
その風景はどこかで見たことがあるものだった。
「これって昨日の夢の風景?」
昨日、何かの夢を見たような記憶はあったけれど、
この時はっきりとその光景を思い出した。
「もしかしたら、、、。」
僕は山の頂上にぽっこりと突き出た岩まで走っていった。
そこには昨日の夢そのままに、岩の中が洞窟のようにくり抜かれた穴があった。
中をのぞくと、テーブルとイスが10年も前からそこにあったかのように配置され、奥には台所のようなものが見えた。
「タケルね。」
真っ暗な洞窟の奥から、女の子の声がした。
暗い中目を凝らして見ると、小学生くらいの女の子が、僕に背を向けながら何か料理をしているようだった。
「この島になんでこんな小さな子がいるんだろう?」
僕は不思議に思いつつも、夢で会っていたせいか、その子が目の前にいることに違和感を覚えなかった。
「あ、はい。」
「今日何も食べてなかったからおなかすいたでしょ。」
「あ、はい。」
僕は、同じ返事ばかりをしていることに気づいて、少しはずかしくなった。
なぜだかわからないけど、突然話しかけられても不思議に思わなかった。
「そこに座って待ってて。今食べるものを持っていくから。」
その子は僕が今、ここににやってくることを前から知っていたかのように、普通に話しかけてきた。
しばらくすると、料理をお皿に入れて持ってきた。
「ごめんね。ここにはなんにもないの。森にある草をこねて作った草ダンゴと、キノコのスープね。」
「あ、ありがとうございます。」
その子の声は夢の中と同じだった。お母さんの声にそっくりだった。
あまり年が変わらないはずなのに、お母さんのように、いや例えるならずっと前から一緒に暮らしていたお姉ちゃんのようだった。
僕らは何も言えなくなってしまい、ただ無言でご飯を食べて、一緒に布団に入った。
「タケルのことはね、生まれた時から見ていたの。」
とそのこが話しかけてきた。
「なんで僕の名前を知ってるの?お姉さんは誰なの。」
その子は、何も答えずに優しく微笑んだ。
「だから会えてとてもうれしかった。」
「でもね、早く家に帰りなさい。明日起きたら帰れるから。」
「なんでそんなこと言うの。で、なんで帰れるってわかるの?」
僕の頭は色んな疑問で一杯だった。
「馬鹿ね。お母さんが心配しているからに決まっているでしょ。」
「だって、お母さんは僕のこと怒ってばかりだよ。僕がいない方が楽になるから、きっと楽しく暮らせるはずなんだ。」
「困った子ね。」
その子は僕の頭を優しくなでた。
「お母さんは、お父さんがいなくなって悲しくなって、それでタケルも居なくなったら生きていくのもつらくなっちゃうでしょ。わからないかな。」
僕は黙っていた。
「いいから早く帰りなさい。お母さんを助けるの。」
「明日は船がきっと来るから。船に人にはね、すべてを謝って乗せてもらいなさい。」
次の日、僕はその子に朝早く起こされ、昨日船がついたところに行くように急かされた。
「わかったよ。行くからさ。大丈夫だよ。」
彼女は僕が洞窟を出るときに、彼女が首につけていた貝殻のネックレスを渡してくれた。
「これはね。おまもりなの。」
「タケルが安全に家に帰るってお守りじゃなくて。それは絶対大丈夫だから。お母さんとタケルが幸せに暮らすっていうお守り。」
「うん。」
僕は良く分からなかったけど、それを受け取って山を下りた。
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