第2話

明け方、家の表に出ていた良楽はボンヤリと山々を眺めていた。

「糸満の人たちどうしているかな……こんな遠くへ来たけれど……仕方がなかったんだ……」

呟くようにそう言って思い返す良楽の目頭には、うっすらと涙が浮んでいた。

早朝の木曽は肌寒い。しばらく山を眺めてから、土を踏みながら歩いて山中の家に戻ることにした。

家の玄関から上がり、廊下を歩いて行くと、お勝手の方からトントントンと小気味良い包丁の音が聞こえてくる。どうやら加奈子が朝食の用意をしているようだ。

すると真也が起きて来た。

「良楽さんおはよう、昨日は一睡もできなかったようだが大丈夫かね?」

少し深刻そうな表情だ。

「糸満での出来事を思い出しまして……初日からお騒がせしました」

良楽は沈んだ口調でそう言って頭を下げた。

真也は声を下げ、なだめるように返した。

「まぁ気にしなくていい、しばらくここで療養してくれればいいから。それと急がなくていいから、糸満でのことを話してくれないかね」

「ありがとうございます、そのうち話します」

良楽が放った言葉には、何のためらいもなかった。

良楽は真也の寛大な対応に少しずつ信頼を寄せるようになってきていた。

するとお勝手の方から加奈子の明るい声が聞こえてきた。

「真也さん、良楽さん、朝ご飯ができましたよ!」

真也がそれに答えて少し大きな声で言った。

「分かった、今行くよ」

三人が食卓につくと、それぞれいただきますと言って食べ始めた。

良楽が並んでいる皿を眺め回した……ご飯、味噌汁、納豆、サラダ、目玉焼き、イナゴらしき虫……。

真也は一瞬キョトンとしていた良楽を見逃さなかった。そして笑いながら良楽に言った。

「良楽さん、そのバッタみたいなの、昨日の夕飯にも出たけど、まだ慣れないかね?」

良楽の目には加奈子が一瞬クスッと笑ったのが見えた。

「食べるとカリカリして美味しんですけど、見た目がバッタですよね」

真也と加奈子が吹き出した。

加奈子がおかしそうに笑う。

「そのバッタは無理して食べなくてもいいですよ」

朝からイナゴのおかげで楽しい雰囲気の食事となった。

食事が終わると加奈子がお茶と漬物を用意した。落ち着いた雰囲気で、お茶と野沢菜をつまみながら真也が良楽に提案した。

「実はねうちは山を一つ持っているんだ。そこでね、今日は木曽檜を伐採しに行こうと思っているんだ。どうだね、良楽さんも一緒に来ないか?」

真也は伏せ目がちに、しかし視線は良楽の方に合わせていた。

良楽は少し間を置いて、落ち着いた口調で応えた。

「今日は時間もありますし、特にすることも無いので、真也さんについて行きます」

そこで真也は、お茶を一口飲んで、一息ついて、穏やかな口調で話す。

「それじゃあ今日の予定はそれで行こう。それと行くまでにしばらく時間があるから糸満でのことを少し話してくれないか」

良楽は座布団に足を崩して座り、お茶を一気に飲み干した。良楽は肩の力が抜けたというより、思い返しているうちに暗い気持ちになったが、それでも山中夫妻を信じる気持ちが強かったので、気力で話し始めた。

「私が市役所の用地課にいた頃、上司から糸満の海を埋め立てる命令が出たんです。しかもそこは米軍の基地になるというはなしだったんです。一緒に住んでいた母はそのことを話すと猛反対しました。母は沖縄の米軍を県外移設どころか、最低でも国外に移設すべきだと言って熱心に地元の市民活動に参加していました。そのことは知っていたのですが、上司の命令には従わなければいけません。私は海の埋め立ての会議に何度も出て、埋め立ての為に綿密に計画を立てて行きました。もうそれからは家に帰ってきても母とは一切口を聞きませんでした。時々出て行けとも言われました。あまりに居心地が悪かったので、アパートを借りて一人暮らしをするようになりました。家を出て行く時に、母から鋭い目つきで、糸満の海は渡さんからなと言われました。それでも私は仕事に忠実でした。ついに海の埋め立て工事が始まりました。地元住民の反対運動も始まりました。大型クレーンによる土砂の埋め立て工事とともに、海上保安庁と自衛隊による、反対運動の立ち退き行為がありました。住民は腕と腕を組んで人間の鎖になり、座り込んで動きませんでした。しかしそれを、自衛隊の放水と催涙ガスで強制的に排除しました。恐らくそこに母もいたと思います。母はそのあとしばらくして亡くなったのですが、その話はまた後日改めて話したいと思います」

良楽は力尽きたという表情で、うなだれて目を伏せた。

三人の沈黙が続いた……。

真也は加奈子にコップに水を汲んでくるようにささやいた。

加奈子は良楽に温かく微笑み、良楽に水を勧めた。

良楽はそれを受け取り、無表情のまま飲み干し、呟くように言った。

「そういうことなんですよ」

すると真也と加奈子は深いため息をついた。

真也が切り出した。

「よく話してくれました。事情はだいぶ分かった、今日はこれから木曽檜の伐採がある。気が乗らなければ無理にとは言わないが、一緒に行かないかね、これから」

良楽は少し気持ちが上がったのか、胸に秘めていたことを言えたのがよかったのか、スッキリした表情で応えた。

「行きましょう、木の伐採なんて初めて見ます。楽しみですね」

真也はホッとした表情で返した。

「出発は三十分後だ、用意しておいてくれ」

三十分後、良楽が加奈子に言われたとおりに準備していくと、真也は四トントラックにチェーンソーやヘルメットを乗せていた。

加奈子は良楽に明るい笑顔で送り出してくれた。

「気を付けて行ってらっしゃい」

こうして真也と良楽は霧だった林を縫って現場へと向かった、冷んやりとした気持ちの良い空気の中をトラックが走って行く。

良楽が真也に嬉しそうに言った。

「霧の中をトラックで走っていくなんて初めてですよ、すごく気持ちがいいです」

真也も嬉しそうに言った。

「俺は木曽にしか住んだことがないからね、気に入ってもらえて嬉しいよ」

トラックはさらに曲がりくねった道を爽快に飛ばしていく、真也と良楽は気持ち良さそうな笑顔だった。

真也と良楽は現場に到着した。

真也はヘルメットを被り防護服に着替えた後、チェーンソーなどの道具をトラックから降ろした。

良楽にもヘルメット被せ、防護服を着せてやり、二人は急な傾斜の林の中を慎重に入って行った。

真也が先頭に立ち、良楽を誘導した。

「良楽さん気を付けて!」

良楽も一歩一歩確かめるように足元を踏みしめた。

しばらく行くと真也が足を止めた。

「この木にするか……」

真也は三十メートルはあろうかという檜木に手を当てると、上を見上げ呆気に取られている良楽に真也が大きな声で言った。

「良楽さん危ないから離れてて!……もっと!もっと!」

真也は木が倒れる方向とチェーンソーを入れる角度を計算して、良楽を安全な所まで誘導した。

真也は角度を計りながら一気にチェーンソースターターを引いた!

エンジンの音と共に真也は腰を下ろし、木に対して斜めの姿勢で、垂直にチェーンソーを入れた。

山の中にエンジンの音が響き渡る。

真也は少し木を切った辺りで、チェーンソーのエンジンを止めて、汗を拭こうとした。

そして近くにいる筈の良楽を確認すると、向こうから息苦しそうな音が聞こえてくるではないか。

辺りを見回すと良楽が倒れている!

真也がチェーンソーを置き、慎重に地面を踏みしめ、良楽の方へ向かった。

「良楽さんどうした?大丈夫か?」

良楽は息も絶え絶えに。

「頭の中が……真っ白になって……急に呼吸が……苦しくなって」

真也が調べたところ特に外傷はないようだ。

真也は直感で、ビニール袋を良楽に渡し、それを口に当てて呼吸するように言った。

十分もしただろうか、ようやく良楽の呼吸が整ってきた。

良楽はビニール袋を置き、冷や汗で濡れた顔を拭き、真也から手渡された水を飲みながら呟いた。

「一体どうしたんだろう……こんな事になるのは初めてです」

真也は厳しそうな表情で言った。

「あんた、ここにきてから調子がおかしくなることがあるね、一度心療内科でも受診してみたらどうかね」

良楽は自分で悟っていたのか、力が抜けたように応えた。

「そうします。こんなことが続いていたら先が思いやられます」

二人はゆっくり、トラックのある場所まで、地面を確かめながら歩いて行った。

トラックで家に帰るまでは、真也は厳しい表情だった。良楽は天を仰いでいた。

家に帰ると、真也は車を乗り換え、加奈子に告げた。

「田中クリニックに行ってくる、良楽さんの体調がおかしい」

加奈子は驚いていた。田中クリニックというと心療内科だ。何があったのだろう。

「気をつけてね、何があったか知らないけど、あとで聞くね」

診察時間は五時までだ、腕時計を見ると四時半だ。間に合うか心配だったので、車を飛ばし気味に走った。田中クリニックに着いたのは四時五十分だった。

真也は急いで良楽を連れて行き、受付を済ませた。

二人は誰もいない診察室で、夕陽に照らされながら、黙ったまま、名前が呼ばれるのを待った。

しばらくして、中年の眼鏡をかけた女の看護師が寄って来て、良楽の名前を告げた。

「喜満平良楽さん、奥へどうぞ、こちらです」

ベテランの看護師らしく、手慣れた様子だった。真也も同席することにした。

診察室に入ると、六十過ぎくらいで初老の少し痩せた医者が、カルテを前に座っていた。診察はすぐに始まった。

「喜満平さん、どういたしましたか?」

良楽はこの時はすでに落ち着いていた。そして医者の質問に答えた。

「最近眠れなくて、寝ても悪い夢を見るんです。今日も、山中さんの檜木の伐採を見に行った時に、頭が真っ白になって、息が苦しくなって倒れたんです」

医者は次に山中へ質問した。

「良楽さんは、最近山中さんの家に住んでいるようですが、様子はどうですか?」

真也はすぐさま答えた。

「私から見てると突然体調が悪くなるみたいですね」

すると医者は少し考えて、こう答えた。

「分かりました、精神の病気になりかけてますね。効き目の弱い安定剤と睡眠薬を出しておきます。院内処方ですからね、安心してください。デパスとロヒプノールという名前です。食後とお休み前に飲んでください。また何かあったら来てください」

真也と良楽は深々と頭を下げてお礼を言った。

その日は帰って来てから簡単に夕食を済ませて、良楽は早速もらった睡眠薬を飲んで早めに寝ることにした。

真也と加奈子は良楽が寝るのを見届けて、今日あったことを真也が加奈子に話した

加奈子がうつむき加減に真也にこう言った。

「それは大変ね、しばらく安静にしておいた方がいいのかしら?」

真也はしばらく考えて返した。

「先生はね、無理しなければ普通に過ごしてていいって」

すると加奈子は一安心といった様子で二人を見た。

「それ聞いてホッとした……私たちも寝ましょうか?」

二人は今日は疲れたといった感じで床についた。眠りに入るまで時間はかからなかった。

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