「美ら海へ」

ヨシヤン

第1話

「美ら海へ」 吉野陽一

山林の中から三線の音が聞こえてくる。霧だった林の中で、沖縄民謡の歌が聞こえてきた。景気の良い口笛と共に囃子(はやし)が響き渡る。ある男が林の中から三線を抱えて出てきた。その男の名は、喜満平良楽(きまんべいよしら)沖縄の糸満市から来たという、四十五歳独身。糸満市では市役所の職員をやっていたが、市役所で問題を起こし、自主退職した。そこで糸満市では居づらくなったので、長野県の木曽に住んでいる親戚の山中という家お世話になることになった。

親戚のいる木曽には初めて行くことになる。彼の心中は希望よりも不安が先立っていた。職場で問題を起こした自責の念があるのか、こんな自分を快く受け入れてくれるわけがないといった思いがあったからである。

それでも親戚の山中さんは、「それだったら家に来なさいよ」と良楽を呼んでくれた。

そんな親戚が呼んでくれた手前、下手なことは出来ないだろう。そんな迷いと少しの混乱があった。

喜満平が木曽に着くと、ローカル線の駅で山中が車で出迎えてくれていた。喜満平は帽子を取って山中に挨拶した。

「よろしくお願いします」

すると、山中は笑顔で迎えてくれた

「長旅疲れたでしょ? 家に来たらお風呂焚いてあるからね」

喜満平は訳あって後ろめたい気持ちがあったので。

「ありがとうございます」

とわざわざ丁寧にお辞儀をした。なので山中は不思議そうにしたが、誰も何も聞くことがなった。こうしてふたりは車に乗り込み、家へと向かった。喜満平にしてみれば標高の高い山々や澄んだ空気、木曽という所は初めてだ。

「山中さん、空気が澄んでますね」

そう問う喜満平の声は少し沈んでいた。すると山中は言葉を返してくれた。

「そうかい?海もいいけど山もいいでしょ?」

喜満平はあの時のことが蘇ったのか。

「わたしが職場であんなことしたばっかりに......」

すると、山中は気遣うように諭した。

「気にしなくていいんだよ、良楽になにかあったら、お願いしますというのが、あなたのお母さんからの遺言だからね」

三十分ほど山の中を車で飛ばしたら家に着いた。

山中の歳は五十で、五十七の旦那さんと住んでいる。ふたりの子供は独立して東京に住んでいた。彼らの家は茅葺き屋根の古い家だ。築百年という。

旦那さんは喜満平に挨拶し手を伸ばし握手した。

旦那さんは気さくで明るい印象を受けた。

玄関からお邪魔しますと家に上がると奥の居間に通された。奥さんがお茶の用意をしている間、旦那さんと喜満平は机の前で無言でいた。なんだか気まずい。何を話そうかと迷っているうちに、奥さんが緑茶とすんき漬けを持ってきてくれた。

「お茶の用意出来たわよ、あがってください」

三人で一緒にお茶やすんき漬けをいただいていると、自然と緊張がほぐれてきた。

旦那さんの名前は真也という。奥さんの名前は加奈子だ。

真也が良楽に聞いてみた。

「良楽さん単刀直入に聞くが職場でなにがあったんだい?」

「そうですねぇ......言いにくいことではないのですが役場の仕事で、用地買収の仕事をしてたんです。それで地元住人とぶつかりまして......それがどんどん大ごとになって、市役所でも居づらくなりまして......地元住民からも......」

良楽が話しているうちにどんどん辛くなってきた。

「良楽さん分かった!それ以上言うな!」

真也は途中で苦しそうな良楽の言葉をさえぎり、背中をさすった。良楽が振り返ると、真也の温かい微笑みがあった。

「良楽さんのミスもあったろうけど、大変な目にあったねぇ、この土地に馴染むまで時間がかかるだろうけど、しばらくここにいていいから、なにかあったら遠慮なく言っとくれ」

真也は良楽をなだめるように言った。

「加奈子、風呂が沸いてるから良楽さんを」

加奈子は「はい」と言って立ち上がった。

「良楽さん、お風呂こっちだから」

良楽は加奈子の後をついて行き、風呂場へと向かっているうちに少しずつ息が整っていった。

「良楽さん、ごゆっくり」

湯船に入りながらお湯を手ですくい、顔にかけた。

「職場で不祥事を起こした自分を受け入れてくれるなんて、母の遺言とはいえ、いい人たちだなぁ。木曽の人たちやこの土地のことも知らないと」

少し緊張はしているが、お湯の加減が良いせいか、窓から照らしている太陽の日差しのせいか、木曽の人は良い人だなんて思えてきた。

風呂から上がると、脱衣所にあった浴衣に着替えて、そのまま庭に出てみた。

霧だった山々が連なっている。

「絶景かな絶景かな」と言ってみた。気分がいい、心が解放される。

ふと、足元を見てみた。 可愛らしい花が咲いている。しゃがんで花に問いかけてみた。

「私の人生はこれからどうなるんでしょうね」

ひととき小さな花を眺める。すると、心の中に何かが湧き上がってきた。気付いたら、叫び声をあげていた。

「糸満でこの花を踏みにじったんだな俺は!」

遠くから加奈子の呼ぶ声が聞こえる。

「そろそろ夕食の支度が出来ますよ!」

「ありがとうございます、すぐにそちらに行きます」

明るく振舞おうとするが、かえって不自然になってしまった。

夕日が山の向こうに落ちる前に夕食になった。この辺は山に囲まれているので、日が落ちるのは早い。まだ日があるうちの夕飯は、早い方だった。

イナゴ……初めて見る虫。なんだろう?食べたことのないものがいくつかある。七笑と書いてある。

「良楽さん。見たこともないものがいくつかあるだろう?どうだ食べてみろ、七笑は木曽の地酒だ!」

良楽はがっつくように食べた。

「初めて食べるものもありますけど美味しいですね」

「それは良かった良かった!」

真也は少し酔っているみたいだった、気分が良さそうだ。

「ところでこれからどうして行くつもりだね?」

「今のところまだ考えていません、ここの土地に馴染んで行くのが最初ですかね? 追い追い考えて行こうと思います」

「まぁゆっくりしていけばいいよ、突然追い出すことはしないから」

「まぁお父さんたら」

加奈子が明るい声で加勢した。

木曽での初めての夕飯は、とてもいい雰囲気だった。

夜も更けてそろそろ寝る時間だ。とりあえず良楽は二階で寝ることになった。

「良楽さんお休み」

真也と加奈子が静かに声をかけたてくれた。

「真也さん、加奈子さんお休みなさい」

そういって電気を消して布団にもぐりこんだ。

そして夜も更けた頃、茅葺き屋根の天井を見上げながら低い声で呟いた。

「とりあえずは良い人たちに助けてもらえて良かったけど、いつまでもここに居られるわけではない、今考えたって、これから先どうなるか分からないから」

喜満平良楽は茅葺き屋根の天井を眺めながら、糸満でのことを思い出した。

「沖縄で迫害に会ったこと。市役所の同僚から冷たくあしらわれたこと」

いろんなことが走馬灯のように蘇ってきた。

良楽は少し声を荒げ「考えてもしょうがない」と言った後、寝返りを打った。

忘れよう忘れようとすると、逆に眠れなくなってくる。糸満での出来事が頭から離れない。ふと眠くなって来るのだが、あのことが夢に出て来そうになる。

少し眠りに落ちた……。

夢の中で声が聞こえて来た

「海を……返せ……」

ハッとして起きた。汗をかいて息が上がっている。そして胸が締め付けられるように苦しい。

そして、とうとう水が欲しくなった。

良楽はとっさに真也と加奈子を探した。

一階に降りて真也と加奈子を呼ぶと、近くにいた真也が小走りにやって来た。

「どうしたんだいこんな夜中に」

「水をください……」

真也はお勝手に行って大きめのコップに水をいっぱいに汲んでくると、それを良楽に渡した。

良楽は一気に水を飲み干し、その場にしゃがみ込んでしまった。

結局その晩は寝付くことが出来ず、良楽は一睡も出来ないまま朝を迎えることになった。

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