4. 試練



翌日も、二人は池ケ原公園を訪れていた。


実はアイには、一週間前から心に決めた事があった。


ヒロくんと別れる。


一晩、部屋の天井を見て考えて、出した結論だった。


最近ずっと、一緒にいても、ヒロは

楽しそうな顔をしない。何でも面倒くさがって

二人の会話は、ぶつ切れになりがちだった。


私のこと嫌いになったのかな。

そんなことは信じたくなかった。


理由は良くわからない。

けれど、彼が辛そうにしているのをずっと

見続けるのは、もっと嫌だった。


ただ、ヒロに一度だけ、叶えて欲しい願いがある。

私と一緒に、モルモットを抱いて欲しい。

フワフワしたあの子たちを抱く幸せを

最後にヒロと共有したい。


それが叶ったら、すべて終わりにしよう。


そう思い続けて、もう何日もこの公園に通い

自分だけモルモットと触れ合っている。


帰り道はいつも

変わらない二人の関係への安堵と

達せられなかった望みへの後悔とが

胸の中で入り交じっていた。



そしてヒロにも、以前から決めていた思いがあった。


アイと終わりにしよう。


毎日、当たり前のように彼女に会うのに

サヨナラを言った後の帰り道、一人になると

その思いが強くなっている。


アイの期待に答えられていないんだろうなと思う。

自分は面白くない人間のくせに

意固地になると言うことを聞けなくなる。

嫌な性格だ。


いつもアイの笑顔を見ていたい。

なのに空回りして

つまらない顔にさせてしまう。

そんな悪い循環を断ち切りたかったのだが

それも疲れてきた。だから打ち明けようと思う。


けれどひとつだけ、頑固な自分が譲れるとしたら。


せめてアイの大好きな、あの小動物を一緒に

抱いてやろう。アレルギーも一瞬なら

何とかなるかもしれない。それで最後に彼女の笑顔が見れるなら。


その決意をしたのがいつだったか。


ヒロにも踏み出せない、一歩への苛立ちがある。

アイが隣にいて、明日も会ってもらえるという

安心感。ふたつのジレンマから

抜けなせないでいた。



「ヒロくん、何時?」

「あと5分。もう3回目だよ」


ヒロは今日も同じように、疲れた声で返事を返した。

どうしても、明るい声になれなかった。


「動物アレルギーだからな」


そればかりか、先手を打つように言ってしまった。

後悔しても、出た言葉はもう、戻せない。


アイは黙ってヒロを見る。そして小さく呟いた。


「別に入ってこなくていいよ」

「え?」


ヒロは拍子の抜けた声を出した。

いつもの喧嘩のループに入らず

やけに素直な彼女に戸惑いを隠せない。


「はい、ふれあいたいむのお時間ですよー」


飼育員のお姉さんが、仕切りのドアを開く。

アイはそれ以上何も言わず、子供たちと一緒に

柵の中へと入っていった。


そこにはすでに、出番を待っていたモルモット

たちが、木箱の中でもぞもぞと動き回っていた。


アイはさっそくタオルを持って、長椅子に座りこんだ。

白ベースに茶色と黒のブチがのった

モルモットを慣れた手付きで、膝の上で

遊ばせ始めた。


ヒロはその場に立ち尽くしていた。

モヤモヤとした気持ちが収まらず、さらに

アイの失望と諦めの目が忘れられない。


「あ、柵を締めますけれど、お兄さんは入りますかー?」


お姉さんの少し高い声に、ヒロは最初、無反応だった。

しかし、意を決したように、足を踏み出した。


「入ります」


ヒロは一歩一歩と進み、アイが座る赤く塗られた

椅子の前に立った。


「ヒロくん…」


アイは座ったまま、驚いた表情で中背のヒロを見上げた。

信じられなかった。

一瞬だけ、同じ場所にいるという嬉しさがこみ上げてきた。

しかしすぐに現実を思い出した。


『私と一緒に、モルモットを抱いて欲しい。

それが叶ったら、すべて終わりにしよう』


「あ…」


自分で決めた事なのに、心が準備できていない。

それどころか、拒否している。

アイは一気に血の気が引いた。


「無理しなくていいから、やっぱり外で待っていて」そう言いたかったのに、緊張で舌が回らなかった。


ヒロもやはり無言だった。

ただここに来てしまった結果

お姉さんの言葉通りに動くしかできなかった。


ヒロは困惑する表情のアイの横に腰を下ろした。


「どのモルちゃんが良いですかー?」


彼も緊張していた。

お姉さんの問いかけに、まともに答えられず

ただ適当にモルモットの一群を指さした。


正直どれでも構わなかった。

ただアイの望みを叶えてやることだけを考えた。

一瞬でもいいから、笑顔にしてやりたい。

例えそれで、二人の間にピリオドが打たれようとも。


「はい、じゃあこの白い子にしましょうかー」


お姉さんがヒロのGパンの上にタオルを敷き

お尻におが屑の付いた、白のモルモットを

優しく運んできた。


「モルちゃんは臆病なので

びっくりさせないよう両手で

持ってくださいねー」


ヒロの首の腱が、毛むくじゃらの塊をみて引きつった。

大丈夫だ。息をしなければいい。たかが数十秒だけ。

それで終わりにしよう。


「ヒロくん、ま、待って!」


何とか少しだけ出た、アイの悲痛な訴える声。

だが、それも遅すぎた。


ヒロは自分の体が逃げようとするのを

必死にこらえて、係員の手から

モルモットを受け取った。




「長老、いよいよです!」


盲しいた目の代わりをつとめる

若い従者の茶モルが緊張した声で

そう告げた。


長く白いまつ毛の片方がぴくりと動いた。

長老の鼻が人間たちの方に向けられる。


数人の老モルたちの下で、巣箱に残されていた

モル立ち一同が、固唾を飲んて、試練の様子を

伺っていた。


その集団の先には、餌箱の上に陣取る

あの黒モルもいた。


彼は口をつぐみながらも、緊張した面持ちで

自らの体毛をつかんでいた。


「ねーねー、あっしにも見せてくださいよ!」


黒モルの配下にいる子分たちが箱の底から

キーキーと不平を言い出す。


「ねー黒モルの旦那!」

「うるせえ! 黙ってろ!」


黒モルは小さな爪の生えた手をふるって

仲間を制した。


その直後だった。


「あっ!!」


その場にいたモルたち全員が、叫び声をあげた。




って!!」


ヒロの叫びが公園の空に響いた。

その場にいた大人も子供も、皆が驚いて振り向く。


白いモルモットが指に噛み付いたのだ。


慣れない人は、モルモットの口の前に

指を出してしまい、本能的に反応した

小動物に噛まれてしまう事がある。


しかしヒロの手にいた白モルの噛み方は

だいぶ過激だった。


ヒロは思わず、手をばっと引いて

右指を押さえた。

予想していなかっただけに、その動作は

一瞬だった。

そして、腕にひっかかった膝の上のタオルが

ばっと宙を舞った。


「あっ…」


女性飼育員が思わず口をぽかんと開けた。


白いモルモットが、空を飛んでいた。


腕を払った勢いで、白モルは

ヒロの頭上に投げ出され

白く小さな風船のように、空に浮いていた。


モルの横に長い胴体が、くるくると回って

白く美しい体毛が陽光に輝く。

その姿はまるで、無重力の宇宙に浮かぶ

宇宙飛行士のようだった。


その一瞬の出来事は、アイの瞳にも

スローモーションで映っていた。


彼女もまた、その場にいる

驚きで何も言えないうちの

一人だった。


やがてアイは気づいた。

白モルは私の所に落ちてくると。


時間にしたら一瞬だったに違いない。


時は少しの間だけ、人とモルモットたちの前で

ゆっくりと動き、奇跡を見せ、そしてまた

いつもどおり進み始めた。


アイは自分のバッグが落ちるのも構わず

慌てて立ちあがり、ばっと両手を差し出した。


彼女は前のめりになりながらも、手を伸ばし

何とか白い毛玉をその掌につかみ取った。


「危なかった…」


アイは心臓の激しい高鳴りを感じて、ふぅと息をついた。

つかんでいた白モルを

胸のあたりに持ってきて座らせ

無事を確かめようとした。


「え?」


アイは驚いた。

白モルは硬直して動かなかった。

それどころか仰向けになって、四肢を伸ばしている。

気絶でもしたかと体を触ろうとした時

アイは気づいた。


「あ…」


その純白なモルモットの白い胴体

お腹の部分の毛が

真っ赤な色で染められていた。


最初はモルが傷を負ったかと思ったが、そうではない。


その色は形をなしていた。

白モルの腹にあったのは

赤いハートのマークだった。


今度はアイが呆然とする番だった。


「まさか…ヒロくん…が?」


彼女は彼氏の方を振り向いた。

ヒロは自分のポケットから出したハンカチで

血の出た指を抑えていた。


「いってー! もう二度と、こんなやつらに触らねえ!」


彼はひとりでプリプリと怒っていた。


「もうしわけございません!

普段はおとなしい子なのですが…」


女性飼育員が申し訳なさそうに謝ってきた。

だが、彼女に罪はない。


ヒロは振り向きざま、アイに向かって宣言した。


「アイ! 今回限りだからな! 俺はもう絶対に――」


ドンと、ヒロの胸の中に、アイの頭が収まった。

どんなモルモットよりも温かい、求めていた、ぬくもり。

そして嗚咽。


「ヒロくん! 私…私…」


アイはそのまま、泣きじゃくっていた。


訳のわからない顔で、ヒロは目を瞬かせた。

周囲の冷やかしの眼に晒されながら

気まずい様子で空を見あげる。


「あーえっと…あのー…アイ?」


彼はアイに抱きしめられ、動けなかった。


やがて、ムズムズしてきた鼻をこすり

思い出したように、大きなくしゃみをしたのだった。




おが屑の白い地に降りてきた、長老の前で

白モルは裁きを待つ咎人とがびとのように

低くこうべを垂れていた。


「顔を見せよ」


長老は重々しく言った。


白モルは頭を上げた。

あらためて、胸にベッタリと塗られた赤い色が

あらわになった。周囲のモルたちがざわめく。


「まさかそなたが

かような行動を取ろうとはな…

述べたい事があれば、言うがいい」

「はい」


白モルは凛とした表情で長老を見た。


「私は掟に従い、試練を受けました」


立ち上がって、自らのその胸を指差す。


「結果はともかく、私はこの通り禁を犯し

一族から受け継いだ体を、汚しました。

さらに人間を噛みもしました」


彼は一度足元を見て、それから飼育小屋の

天井を眺めた。

白モルの覚悟は、それを思いついた時から

決まっていた。


「罪は重いと理解しています。

私は群れを出ていきます」


何十ものモルたちの、驚きの声が響いた。


「最後に言わせていただくとすれば

次の長には黒モルを推薦いたします。

彼の勇気と信念は、我々…いや

この群れのモルモットたちを守るでしょう」


言い終えると、白モルは再び座って

長老の言葉を待った。


長老は黙って目の前の若者を見つめていた。

そして、やがて重い口を開いた。


「【白毛の一族】の末裔すえよ。

ワシの決断を申す」



「待ってくれ!」


稲妻のように割って入る声があった。

白モルの背後から、一つの集団が現れた。


黒いモルモットと十名ばかりの手下たちだった。


「白モルを追い出すなら、俺たちも出ていくぞ!」


白モルは振り返って、驚きの目で黒モルを見た。


長老はざわつく群衆を沈めるべく、両手を上げた。


「静まれ! 静まれ!」


茶モルが大声を上げて、仲間たちを制する。


「黒い者よ、なぜ出て行こうとするのだ?」


長老は落ち着いた言葉で、黒モルに尋ねた。


「お前たちは何も禁を犯していないではないか。

そもそも、群れから出ていく事自体が

罪になるのだぞ?」


黒モルは不敵な笑いを浮かべた。


「簡単な話ですよ。

俺たちが白いモルに付いて行きたい。

それだけです。

それに――」


黒いモルの合図で、彼とその仲間たちは

いっせいにふたつの足で、立ち上がった。


「もう罪なら犯してるさ!」


彼らが見せたものに、モルたちは衝撃を受けた。

ただ、声にならないざわっとした雰囲気が

あたりを支配する。


「ちょ、長老さま!」


飛び上がって慌てた茶モルの一人が、長老に耳打ちした。


長老の眉が上がり、まるで見えているかのように

目が見開かれた。


黒モルとその手下の腹毛に

みな一様に赤色で塗られたマークが

ベッタリと描かれていた。


モルモット自身の下地の色によって

塗られた印象は異なったが

自然な物で無いことは明らかだった。


「どうです。禁を破ったんだ。

これで俺らも同罪でしょう?」


黒モルがゆっくりと歩いてきて

押し黙っていた白モルの横に並んだ。


「やあ、白モル。

お前の飛ばされ具合、最高だったぜ」


黒モルは心から、朋友を讃えた。


「俺、前から外の世界を見てみたかったんだ。

出ていく気なら、早く言ってくれよ」

「黒モル…」


返せた言葉は少なかった。

白モルは、ゆるんだ涙腺を抑えきれず

一粒の涙を流した。


ひとり、またひとりと、モルモットたちから

足踏みと手拍子が鳴り出した。


「白モル、万歳!!」

「素晴らしい若者たちだ!」

「誇り高きモルモット族の栄光よ、永遠に!」


モルたちは口々に、興奮と感動から出る

言葉を叫び、やがてそれらの音は

巣箱を包み込む大音響となった。


茶モルたちがその騒ぎに目をパチクリする中

長老は小さく、そして満足の言葉を漏らした。


「こらこら。

まだ私の決断を申していないと言うのに…」


長老の心は決まっていた。


「白モルよ。我ら一族を頼んだぞ」


側近の茶モルにそれを述べると

長老は人々の喜びの声を背中に

自らの温かい巣箱へと戻っていった。




「なんか今日はいつもより

モルちゃんたちの集まる時間、長くないですか?

それに何かも興奮しているような…」


女性スタッフが怪訝そうに訊いた。


「今日は格段に寒いからな。それだけだよ。

さあ仕事、仕事」


煙草を吸い終わり、戻ってきた男性飼育員は

相変わらずにべもなかった。



緑に塗られたベンチに座り

スポーツ新聞を片手に、独りごとを言う老人。


「あんれえ?

俺の、幸運の赤いサインペン

どこいった?

あれがねえと、当たんないんだなあ」



「区立池ヶ原いけがはら公園 こども動物園 富士見平分園」


公園は今日も平和である。




モルちゃん  おわり

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