第24話

「まずは、君に謝らなければならない」


 そう言って、東間准尉は足を正座に組み直し、丁寧に手をついて深々と頭を下げた。


「申し訳なかった」

「えっ」


 私は驚いた。何が申し訳なかったというのか? 勝手に安全地帯から出てきたのは私たちの方なのに。


「でも、東間准尉が来てくれなかったら、私たちは怪物の餌食に……」

「そういう問題ではない」


 身体を起こし、両手を両膝の上に載せながら、東間准尉はピシリと背を伸ばす。


「私は、避難指示が出ている民間人に退避を促すためといって、拳銃で君を脅した。正直、考えられないことだ。あってはならないことであるのは当然だが、それ以前に、自衛隊員という責任ある立場の人間として、常軌を逸した行動だった」


 東間准尉はもう一度、『申し訳なかった』と繰り返し、再び頭を下げた。

 完全に恐縮してしまった私は、どうしたものかと左右を見回したが、誰もこちらに耳を貸してはいない。健太も、輝流も、西野准尉も。


「それが、私に伝えたいこと、ですか」


 しっかりと頷いてみせる東間准尉。


「だが、もう一つ大きな話題がある。君とお父上、神山悟志二佐とのことだ」


 私は悲鳴を上げそうになった。こんなところで、この話題が出てくるとは思えなかったのだ。


「あの人がどうかしたんですか」


 努めて平静を装いながら、私は尋ねた。


「君のお母上と妹さんが亡くなったという一報は、翌日、イラクにある陸自の主要基地に届いていた。神山二佐、ああ、当時は三佐だったが、とにかく彼は取り乱した。長年部下として協力してきた私が見ても、まるで別人としか思えないほどに。あんなに感情を露わにした神山三佐を見たのは、それが最初で最後だ」

「と、取り乱した……?」


 私はポカンと口を開けて、今耳に入った言葉を脳内で咀嚼した。

 父が、取り乱した? 十年来の付き合いのある部下の前で?


「あり得ない……。あり得ませんよ、そんなこと!」

「シッ!」


 叫びかけた私を、東間准尉の鋭い視線が射抜いた。私はすぐに口に手を当てて、声、というか息が漏れないようにする。この話は、健太や輝流の前ですべきものではない。


「それはそれは、酷い暴れっぷりだった」


 目を細めながら、東間准尉は父の一挙手一投足を語りだした。


         ※


 七年前の七月下旬。イラク某所、陸上自衛隊ベースキャンプにて。

 

「コーヒーです、神山三佐」

「ああ、すまないな、東間」


 プレハブ小屋を連結して設けられた陸自の司令部で、ブラインドを下ろした窓から、父は鋭い光を放つ太陽を見つめていた。背中で手を組み、多くの作業の進捗状況の報告を受けるべく待機している。東間准尉は、当時はまだ階級が二曹だった。


 テーブル上の無線機が、雑音を拾った。何者かが、ベースキャンプの作戦司令部と通信を試みている。出たのは東間二曹だ。周波数を合わせてマイクのスイッチを押し込む。


「こちら作戦司令部、どうぞ」

《こちら給水班04、市民に飲料水の供給を開始します。どうぞ》

「司令部了解、撤収時に再度連絡を要請する。どうぞ」

《給水班04、了解。定時連絡終わり》


 東間二曹はマイクを置き、父の方に振り返った。


「今日も順調ですね、神山三佐」

「ああ。だが油断は禁物だぞ、東間。非戦闘地域とはいえ、周辺にテロリストが皆無とは言えないんだ。夜に歩哨に立つ者は? ちゃんと休めているか?」

「はッ。先ほど、キャンプ内の見回りをしてきました。皆、心身共に異常ありません」

「了解した」


 そう言って父が窓に振り返った、その時だった。


「ん?」


 すぐさま、再び無線機が響いた。


「何事だ? 別動隊はまだ作業に取りかかっていないはずだが」

「神山三佐、これはどうやら、給水班からではないようです。いや……日本からの、緊急連絡です!」

「代われ」


 ゆっくりとマイクを取り上げる父。『何事だ?』と再び問う。

 

 東間准尉は考えていた。自衛隊員に死傷者が出たのだろうか。非戦闘地域だから、という建前で、人道支援にやってきた自衛隊。だが、もし父のあずかり知らぬところでそんな悲劇が起きていたとしたら。

 即時撤退命令が出てもおかしくない事態である。


 だが、父は無反応だった。『繰り返せ』とも『了解』とも告げない。確かに、そもそも日本からの緊急通信となれば、その用途は限られ、それもまた極めて緊急性の高いものにもなるだろうが――。


 いい加減、父に声をかけようとした東間二曹は、驚きの事態に巻き込まれることになる。

 ガチャリ、と足元で響いた音。それは、無線機のマイクが父の手から滑り落ちる音だった。


「三佐、いかがなさいましたか?」

「東間、私はしばし、ここを空ける。代役を頼む」


 慌てたのは東間二曹だ。


「は? ど、どういうことです? 自分の階級では、各部隊への指示は出せません。神山三佐か同格以上の階級の士官に来ていただかなければ――」

「頼む」


 その『頼む』という言葉に、東間准尉は凍り付いた。『たのむ』という三文字の、平易な言葉。しかし、その言葉に込められた裏の意味が、黒い空気をまとって父の背中から発せられていた。

 父の『頼む』という言葉。そこには、要請でも哀願でもない、絶望感だけがありありと込められていたのだ。


 父は東間二曹に背を向けたまま、コンバットブーツを鳴らして退室していった。しかし、その足取りに僅かな乱れがあることを、東間二曹は目にしてしまった。


 呆然と立ち尽くす中、ようやくはっとして、誰かに司令室に来るよう要請しようとした、その時だった。


「うあああああああ!!」


 絶叫が、東間二曹の頭蓋を揺さぶった。このベースキャンプ全体に響くのではないかと思われる音量だ。

何故、敢えて『声量』ではなく『音量』という表現が使われたのかといえば、それを聞いた誰もが瞬間的に、人間が発することのできる『声量』を遥かに上回る勢いと振動、それに絶望感を感じ取ったからだ。


 しかし、その絶叫が轟いたのは、その一回限り。何事かと周囲が見回す中、東間二曹は、まだ日本から中継された無線が生きていることに気づいた。ヘッドフォン型のスピーカーを装備する。


《こちら中央通信室、何かありましたか?》

「それはこちらが伺いたい!」


 東間二曹は胸を張った。


「私は東間隆文二曹、神山悟志司令官付きの情報処理監督者だ。何があった?」

《いえ、その、これは三佐のプライバシーに関わる案件でして……》

「プライバシーだと? ふざけるな!」


 その怒声に、場は再び緊張した。父の絶叫が響いた時ほどではないが。


「答えろ。何があった? これは命令だ」

《あの……。神山悟志三佐の奥様と娘さんが、交通事故で亡くなったそうです。たった今、日本本国から情報が入りまして》


 東間二曹は、すうっと自分の身体から熱気が抜け出ていくのが感じられた。それでも、なんとか気丈に通信を続ける。


「いつのことだ?」

《情報が入ったのは昨日。日本時間では、事故の発生は一昨日の早朝だそうです》

「ご苦労。怒鳴りつけてすまなかった」


 そう言った時、司令室の扉が開いた。


「何だ、さっきの雄叫びは? それより、事情を知る者はいるか?」

「はッ、自分が説明いたします」


 司令室に入ってきた一佐(父より二つも階級が上だ)に向かい、東間准尉は説明した。しかし、何をどう話したのかは記憶に残っていない。ただ一つ覚えているのは、あれほど敬意を払っていた神山悟志という男もまた、一人の父親であり、夫であり、人間であったということが実感された、ということだ。


 一佐はこの事態を憂慮し、自らが司令室に配置転換することを提案した。そして東間二曹に、父のサポートをするように、とも。


 翌日。

 流石に空腹をきたしているであろう父の部屋の前で、東間二曹は悩んでいた。今ここで、『朝食をお持ちしました』などと言えるかどうか。しかし、一佐に直々に父のサポート役を命じられてしまった以上、どうにかせねばなるまい。


 意を決して、東間二曹は父の個室の扉をノックした。

 返答は、ない。


「か、神山三佐、朝食をお持ち致しました」


 扉の向こうに、人のいる気配はする。しかし、動く気配はと言われると、実に曖昧なところだ。

 待つこと五分。ノックを繰り返すこと四回目、となりかけた直前、個室の扉が開いた。


「すまんな、東間。今作戦司令室に詰めているのは?」


 東間二曹は、一佐の名前を告げた。


「了解。私はすぐに元の任務に戻る。朝食は不要だ。代わりに食べてくれ」

「い、いや、しかし三佐!」

「生憎喉を枯らしていてな。悪いが、固形物を飲み込める状態じゃないんだ」


 その父の顔を見返して、東間二曹は後ずさりしそうになった。父の黒々とした髪は、この一晩であちこちに白いものが混じっていたのだ。

 それに、この声の掠れ具合。恐らく、枕に顔を押し当てて号泣していたのだろう。


「行くぞ、東間」

「は、はッ!」


 それ以降、父は変わってしまった。厳格だが愛のある父親から、ただ頭ごなしに娘を否定する冷徹な男へと。

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