第11話

 沼の泥水は、全く視界が利かなかった。それほど濁っていたのだ。


「さあ皆、進んでくれ」


 西野准尉が声をかける。その穏やかな表情を信じて、私は沼に片足を突っ込んだ。泥水が肌に接してくる気持ち悪さが、この沼のおぞましさに拍車をかける。ばちゃばちゃと音がするところから、後続も沼に入ったらしい。


「ほら、美穂さん!」

「う……」


 躊躇う美穂を、克樹が促している。


「生臭くないだけマシでしょう? さあ」

「うん……」


 そう言えば、美穂は牛乳が苦手だったっけ。そんなこと、今はどうでもいいのだけれど。

 思いの外慎重だったのは、健太だった。沼の水面に目を凝らしながら、足をあまり上げないようにして進んでくる。

 皆それぞれの行動を取っているけれど、今は大丈夫。自衛隊の人が守ってくれているのだから。そう自分に言い聞かせ、私はまた一歩、歩み出た。その時だった。


「うおっ!?」


 前を歩いていた隊員が、仰向けに転倒した。


「だ、大丈夫ですか!?」


 沼の底で足を滑らせたのかと思ったが、それだけではない。必死に何かを振り払おうとしている。只事ではないと、私は察した。

 思いっきり息を吸い込み、頭を沼に突っ込む。視界はどうせ零だろうから、目はつむったまま。隊員の足があると思われるところに向かい、滅茶苦茶に腕を振り回す。

 すると、何かが手に触れた。蛇のような何かだが、鱗の一つ一つが硬く、先ほどのカマキリ状の怪物のそれを連想させる。根拠はないが、私には、これが地球上に非ざるものの感触であると察せられた。


「離れろ!」


 周囲の隊員たちが、慌てて私を引き離す。転倒した隊員も引っ張りだされたところで、ついに怪物は全身を露わにした。水面から飛び上がったのだ。

 今度の怪物は、ナマズのような姿をしていた。しかし短い四肢があり、その先に鋭い爪を有している。

 最も特徴的、というか不気味だったのは、頭部全体が口になっていることだった。目も鼻もなく、円形の口が開いている。内側には、円を描くように、細かい牙が並んでいた。食いついた獲物をすり潰しながら胃袋へと飲み込んでしまう習性があるのか。


「皆、急げ! 各員、足元を警戒! 上方の警戒は東間に任せる!」

《了解!》


 そう言い終えるか否かというところで、カマキリの怪物が落ちてきた。派手な音を立てて、遠く前方で水中に没する。その後になって、ピシュン、という消音器つきのライフルの発砲音が響く。


「東間、状況は?」

《カマキリ状の怪物が複数、そちらへ接近中。援護射撃を続行します》

「了解」


 その頃には、ナマズ上の怪物はあちらこちらから襲ってきた。パタタタッ、パタタタッという小銃の短い発射音が、殺意に満ちた狂騒曲を奏でる。


「おい輝流! お前、どうにかしろよ!」


 健太の言葉を前に、しかし輝流は手をこまねいている。


「僕にできるのは、炎を出して戦うことだけだ。水中から迫ってくる敵にはどうしても……」

「まだ何かできるんだろ!?」


 すると、渋々といった様子で輝流は腕をまくった。そしてこともあろうか、私に向かって指示を飛ばした。


「沙羅さん! あなたならこの怪物を捕らえられる!」

「な、何て?」


 水面から顔を上げた私は、突然のことに頭の整理がつかなかった。

 すると、テレパシーで輝流の狙いが伝わってきた。


(沙羅さん、君は特異体質だ。理由は後で伝える。だが、君は怪物たちに対する耐性がある。なんとかして怪物を引っ張り出して、放り投げてくれ。そうすれば、炎で焼き尽くすことができる)

「わ、私にナマズの摑み取りをしろって?」

(そうだ!)


 特異体質やら耐性やら、わけの分からない話だ。しかし、輝流はいつも私たちを助けてくれた。ここは、彼を信じて万全を尽くすしかない。

 瞬きをして、水面を見る。すると、先ほどまでは何も見えなかった水面に、ナマズの怪物の姿がはっきりと見えた。

 こうなったら、駄目で元々、やってみるしかない。私は早速、前を歩いていた隊員の後ろから迫っていた怪物に跳びかかった。


「でやあっ!」


 私は思いっきり、ナマズの怪物に抱き着いた。体表はざらざらしているが、こちらが怪我を負うほどではない。周囲の皆が唖然とする中、私はナマズを思いっきり引っ張り出し、上方へとぶん投げた。

 すると、言葉にならない攻撃衝動が輝流から伝わり、直後、ナマズは灰燼に帰した。


(その調子だ、沙羅さん!)


 もう服が台無しだとか、シャツがへばりついて気持ち悪いとか、そんな次元の話ではない。私は沼の水面を見下ろし、手あたり次第にナマズに向かって飛び込んだ。


「おい君、一体何を!?」


 西野准尉のものらしき声がする。しかし、それを気にかけている場合ではない。私は彼を突き飛ばしながら、西野准尉に迫っていたナマズを引っ掴まえ、ぶん投げるという行為を続行した。


 合計六、七匹は倒しただろうか。あたりには、銃撃によるナマズの死骸が浮かんでいた。幸いにして、こちらに重傷者や死者は出ていない。他のナマズの姿も見受けられない。


《こちら東間。頭上に潜伏していた怪物の撤退を確認。周囲半径五百メートルの安全を確認》

「ご苦労、東間准尉。我々に合流しろ。前進する」

《了解》


 胸元に取り付けた防水仕様の無線機を戻しながら、父が命令する。その様子を、私は何とはなしに見つめていた。しかし、ちらりと父がこちらに視線を寄越すのを、私は見逃さなかった。というか、自然と目と目が合ってしまった。

 父は、なんとも言えない表情だった。それはそうだろう、護衛中だった民間人の、それも年端もゆかぬ女子が、一気に戦況を変えてしまったのだから。

 私も、そのわけを知りたい。だが、それを知っているのは輝流だけのようだし、それについてゆっくり話すには、あまりにも危険な状況だった。


「さあ、沙羅さん」

「え? ああ、すみません」


 西野准尉に促され、私は沼地を渡り切った。


         ※


 しんがりを務めた東間准尉が沼地を出てしばらく。


「諸君、ここで二時間の休憩を取る。怪物は夜行性とのことだ。陽が出てから、再度脱出作戦を続行する」


 警戒しながら、ということを考えれば、この森から出るまでどのくらいかかるか分からない。だからこそ、そのくらいの休憩が必要だと父は考えたのだろう。誰も父の命令に異議を唱えはしなかった。


「西野、東間、交代で周囲警戒の指揮を執れ」


『了解!』という復唱が二回聞こえる。二人共、士気は高いようだ。


「僕も警戒任務に加わります」


 そう声を上げたのは、輝流だった。


「僕は休息なしでも、まだ十時間ほどは動けます。それにいざとなれば、睡眠中の皆に、テレパシーで危険を伝えることも可能です。いずれにせよ、僕は起きていた方がいいかと思います」


 父はやや間を置いてから、『では、よろしく頼む』と一言。


「睡眠を取るものは、絶対に武器を手元に置いておくこと。ただし、セーフティはしっかりかけておけ。以上だ」


 その言葉を聞いた途端、私は膝から崩れ落ちてしまった。


「うおっ!」


 背後から支えてくれたのは健太だ。


「あ、ごめん、ちょっと疲れたみたい……」

「ちょっと、って……。お前、無茶しすぎだよ」

「うん、そう、かも……」

「沙羅さん、これを!」


 克樹の声が割り込んでくる。彼が手にしているのは、大きなアルミホイルのようなものでできたポンチョだった。


「西野准尉から。体温低下を防ぐ、って」

「ああ、ありがとう。美穂は?」

「衛生兵さんのところ。何か話し込んでるみたいだ」


 ううむ、確かに彼女にとっては、睡眠など取っている場合ではないのだろう。自分の心を落ち着かせるだけで大仕事だ。今『休む』といえば、心の休息の方なのだ。


 その時、そばでがさり、と音がした。そちらを見た健太が、あからさまに渋面を作る。


「大丈夫かい、沙羅さん?」

「おい、沙羅は今休んでるんだ。話なら後にしろよ」


 健太が輝流の胸を軽く押す。喧嘩になる恐れを感じたのか、克樹は二、三歩後ずさった。

 しかし、輝流は相変わらず穏やかな口調で、


「沙羅さんにゆっくり休むおまじないをかけに来たんだ」


 と言う。


「おまじない、ねえ? 俺たちの記憶操作なんてやっておきながら、そんな都合のいいものを……」

「じゃあ、試してみるかい? 克樹くん、ここに」


 恐らく、克樹の胸中では、好奇心と恐怖感がせめぎ合いをしているところだろう。が、結局好奇心が勝ったらしい。克樹は輝流の前に歩み出た。


「動かないで。健太くん、後ろから彼を支えてあげてくれ」

「あ、ああ」


 輝流があまりに真剣な表情をしていたためか、健太は素直に従った。輝流はそっと、右の掌を克樹の頭部に置き、目を閉じてすっと息を吸った。すると、


「うわっ!」


 克樹が気を失い、健太に支えられる形になった。その顔はよく見えなかったが、すやすやと寝息を立てているのは分かる。


「僕が沙羅さんに施そうとしている術式は、この程度だ。反対するかい、健太くん?」

「ま、まあ、沙羅が危険でなけりゃ、構わねえけど」

「分かった」


 渋々後ずさりする健太。代わって輝流が私の前にひざまずき、


「少しの間、眠っていてもらうよ」


 と一言。その直後から、私の記憶はやや飛ぶことになった。

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