夕日のアリアン

岩井喬

第1話【第一章】

 それはドン、という鈍い音だった。トラックに撥ねられた時、真っ先に知覚されたのは。

 事故に遭ったのは私ではない。私の母と、彼女の胸に抱きしめられた妹だ。家の前の国道で、早朝に。

 それを見ていた私は、悲鳴も上げず、身動きも取れず、呆然と佇んでいたという。


「なんだ? 何が起こった?」

「おい、事故だ!」

「誰か一一九番! 救急車呼んでこい!」


 真夏の一陣の風が、私の頬に浮かんだ汗を冷ややかにすくい取っていった。蝉の声がけたたましく、私の耳を震わせていく。


         ※


「はっ!」


 私、神山沙羅は、がばりとベッドから上半身を起こした。

 呼吸が荒い。脈が速い。肩が自分の意志に関わらず上下している。私が聞いていたのは、蝉の声ではなくスマホのアラームだった。


「まったく、うっさいのよ!」


 アラームを切り、スマホを足元へと放り投げる。


「はあ……」


 私は吸い込んできた息を、ため息として吐き出した。こうして意識的に息を吐き出さないと、過呼吸にでもなってしまいそうだ。

 手の甲で額の汗を拭う。ぐいぐいと擦っているうちに、生温かいものが頬を伝い始める。

 ああ、私はまた泣き出している。情けない。まったく、情けない。あれから七年も経つというのに。

 こんな顔では、今日どうやって登校したらいいか分からないではないか。


 私は胸に手を当て、深呼吸を数回繰り返した。ようやく息が落ち着いてきたのを見計らい、窓際のベッドに膝立ちになってカーテンを開く。


「うっ」


 眩しい。今日も晴天だ。蝉が鳴き出すには早い時間帯だが、既に日は昇っている。

 私は振り返り、割と整頓されている(方だと思う)自室を見回した。

 勉強机と本棚が左側にあり、その反対側に薄型テレビ。部屋の広さは八畳くらい。よくここまで手を焼いてくれたものだと、有難さと共に感心する。


 現在高校二年生の私は、母方の祖父母の家に住まわせてもらっている。私の過去を知っているのは、一部の親族と幼馴染が数名。彼らの気遣いは、本来ならば心から感謝して受け取るべきなのだろう。だが、私は悲劇のヒロインなど願い下げだ。


 私は寝ている間に被っていたブランケットを畳んでベッドに置いた。一つ欠伸をしてから背伸び。そして、既に朝食の準備を始めているであろう祖母の手伝いをすべく、階段を降りていった。


「おはよう、沙羅」

「おはよう、おばあちゃん。おじいちゃんは?」

「もうとっくに畑に出かけたよ。あ、そうそう、学校へ行く途中に、おじいちゃんにお弁当を持って行っておくれ」

「分かった。あれ? もうご飯できちゃった?」

「うん」


 不自然なところで言葉を切る祖母。もしかして、私はうなされていたのだろうか? それが聞こえてしまった? それで私に朝食の手伝いをさせまいと思い、気を遣って早めに準備を済ませてしまったのだろうか?


「……」

「どうしたんだい、沙羅?」

「え? ああ、なんでもないよ」


 私は自分が元気だと示すため、両手を振って祖母の危惧を吹き飛ばそうとした。そんな私を見て、『ならいいんだけれど』と言いながら、祖母は背を向けた。

 こんな時は、さっさと出かけるに限る。私は味噌汁とご飯と焼鮭に次々と箸をつけていき、さっさと食べ終えた。


「ごちそう様でした」

「お粗末様。あんたも熱中症なんかになるんじゃないよ」

「はーい。行ってきます」


 夏。温暖化が叫ばれる中、毎年のように猛暑をもたらしていく夏。

 七年前は、こんなに暑かっただろうか? そうでもなかっただろうか? いやいや、私はそんなことを考えまいとして家を出たのだ。自分の思考を振り払うようにかぶりを振って、目の前の入道雲を視界の中央へ。


 それから歩くことしばらく。辺りを見渡せば、住宅の隙間隙間に、小さな菜園スペースが空いている。そんな風景がしばらく続き、そして開けた。

 祖父の所有している畑が一面に広がっている。見慣れた白いシャツに作業用ズボン、それに日除けの帽子を被った祖父は、今は何かを植えているようだった。


「おじいちゃん、おはよう」


 手でメガホンを作って呼びかける。すると祖父は振り返り、浅黒い肌に白い歯を見せながら笑みを作った。


「おう、おはよう沙羅。今日も学校か? 終業式は昨日だろう?」

「うん。でも皆、補習なの。夏休みなんて、あってないようなもんだよ」

「そうか、最近の若いもんも苦労しとるなあ」


 のんびりとした祖父の口調に、こちらもつられて笑い出しそうになる。母と妹を喪ってから、どれほどこの笑顔に救われてきただろうか。


「おばあちゃんが、おじいちゃんがお弁当忘れたからって言うから持ってきたよ」

「それはすまんのう」


 私は作物の芽を踏まないように気をつけながら、祖父のそばへ。


「はい、これ」

「ありがとう、沙羅。お前は優しい子だなあ」

「そう?」


 私は敢えておどけてみせた。


「お前も水分補給を忘れんようにな」

「分かってるよ、おじいちゃん。それじゃ、学校に行ってきます」

「いってらっしゃい。気をつけてな」


 学校に到着すると、ちょうど見知った顔と鉢合わせした。いや、クラスメイトや部活のメンバーは皆見知っているけれど、彼は特に気心が知れている。幼馴染の桜井健太だ。


「おっはよー、健太」

「ああ、おはよう」


 健太はぶすっとした顔で返答した。こいつは朝が弱いのだ。だが、彼が不機嫌なのはそのせいだけではないらしい。


「ったく、夏休みなのに夏期課外ってなんだよ。ふざけやがって」


 いかにも悪役らしい台詞を吐き捨てる健太。


「ま、仕方ないじゃん。ここ、一応進学校だし」


 健太は一旦私を見て、何かを言おうとした様子。だが、口を閉ざして顔を逸らしてしまった。うまく言葉を構成できなかったのだろう。まだ寝ぼけているのだろうか。


「ほら、克樹も美穂ももう来てるよ。早く教室に行かないと」

「へいへい」


 健太は渋々といった様子で、私と一緒に階段を上り始めた。


 教室に着くと、なかなかの騒々しさだった。いつもよりも盛り上がっている。


「何かあったのかな?」


 と言い終えるか否かといったところで、『おっと、お二人さん!』と声をかけられた。私と健太の親友、河野美穂だ。短髪の私と違い、長髪をポニーテールにまとめている。


「やっほー、美穂。お疲れー」

「そんなことより、二人共聞いた? 転校生が来るって!」

「ふうん、転校生ねえ。って、え?」

「何だと?」


 この突然のニュースに、私はもとより、健太も覚醒したようだ。私は自分が落ち着くのを待って、美穂に尋ねた。


「男子? 女子?」

「さあ、そこまでは分からないけど。ねえ克樹、あんたは何か知らない?」

「え? 僕? 僕は……」


 美穂が振り返る。そこには、小柄で眼鏡をかけ、教科書に見入っている男子がいた。

 小山克樹。彼もまた、私たちとよく行動を共にしている。仲良し四人組というわけだ。

 インテリ系の彼が、どうして健太や美穂のようなスポーツ系の人間と友人でいられるのか。それは、彼がただの優等生ではなく、物事に対する興味関心を抱きやすいからだ。以前、四人で山登りに行った時も、植生が気になると言って一番楽しんでいた。


 克樹はゆっくりと、私たちの方へと歩み寄ってくる。


「僕も、今日転校生が来る、ってことしか知らないんだ。ただ、このクラスであることは間違いないようだね」


『ふむ』と腕組みする健太。早速転校生の品定めをしたいらしい。だが、そんな彼の思考を遮ったのは美穂だった。


「ねえ健太、あんた、転校生が美人だったとしても、鼻の下伸ばしてるんじゃないわよ」

「は、はあ? 俺が鼻の下伸ばすって、どういうことだよ?」


 すると美穂はふふん、と鼻を鳴らしてこう言った。


「あんたには沙羅がいるじゃない!」


 これには私が吹き出してしまった。


「ちょ、美穂! あんた何言ってんのよ!?」

「まったく、あんたたち本当に自覚ないんだから。ねえ、克樹?」

「うん。二人は仲良く見えるよ」


 そこで美穂がズッコケた。


「克樹、ここは友達かどうかって話じゃなくて、ほら、分かるでしょ?」

「え、それって、友達以上の仲ってこと?」

「しゃらーーーっぷ!」


 私は会話を強制遮断させた。


「どうして転校生の話が私たちの話になるの!? 関係ないでしょ!?」

「ほーら、やっぱり自覚ないんだわ……」


 美穂はやれやれと首を振ってみせた。

 ちょうどその時、担任教師が教室に入ってきた。


「よーし、課外授業を始めるぞー。その前に、転校生がいるからな。紹介する。さ、輝流渉!」


 席に着いた私は、その不思議な名前を口の中で転がした。


「きりゅう、わたる……?」


 一抹の緊張感が漂う中、一人の男子生徒が颯爽と入ってきた。

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