第15話~突然の~
――あれから色んな話を聞いた。
彼の最初の奥さんとは愛し合っていたけれど、子供を欲しがらない彼女と馬が合わなくなった。どうしても子供を持つことを諦めきれない彼は、二番目の奥さんと結婚し三人の子供をもうけたが愛の無い結婚生活は長続きしなかった。
二人を足して二で割れば。
ジャックは今頃、奥さんと愛する子供達に囲まれて幸せに暮らしているかもしれない。
今更どうにもならないこととはわかっているのに、叶子はそんなくだらない事を考えていた。
話の種にするには少しばかり重い内容。ジャックは何故こんな話を叶子にしたのだろう。彼は当時の感情を思い出してしまうのか、何度も涙ぐみながら目を真っ赤にして話続けていた。
「ごめんね、こんな話聞きたくないよね?」
「いえ、そんな事……」
内心聞きたくなかった。だが、叶子に訴えかけるかのようにして一生懸命話す彼を見ると、なんだかいたたまれない気持ちになり話題を変えるなんてとても出来ない。とにかく、彼が落ち着くまで話を聞いて上げようと、ひたすら耳を傾けていた。
「はぁ。本当にごめんね。こんな話するつもりじゃなかったんだけど」
「いえ、こちらこそ。……でも、私で良かったんでしょうか?」
「……」
ジャックは目を丸くしながら叶子を見つめている。叶子はそんな彼の表情をすぐに読み取る事が出来ず、しばらく見詰め合ってしまっていた。
「? ……あっ! そういう意味じゃなくて、“赤の他人の私がそんな大事な話聞いちゃって良かったんでしょうか?”って意味で!」
やっと彼が驚いている意味がわかり、両手をブンブンと振りながら顔を真っ赤にして慌てて否定した。
ジャックはそんな彼女がかわいいと言わんばかりに優しい表情で微笑んだ。
(あぁ、やっちゃったぁー! 恥ずかしい……。きっと『どんだけ自惚れ?』って思われてるよ)
はぁ。とため息を吐いた時、ふと随分長い時間ここに居ると言うことに気がついた。手首の時計をくるりと回し、思わず息を呑んだ。
「やだ、もうこんな時間!? 帰らなきゃ」
「あ、本当だ。もう四時過ぎちゃってるね」
そんな時間になっているにも関わらず、叶子と違って何処か余裕さえも感じさせる。きっと、普段からこんな時間まで起きている事がよくあるのだろう。いくら明日が休みだとは言え、余所様の家にこんなに長居してしまっていたとは思いもよらず、叶子は慌てて立ち上がると彼に背を向けながら身支度を始めた。
「泊まっていけば?」
背後から聞こえた信じられないセリフに、身支度をする手をピタリと止める。ゆっくりと振り返った叶子を見た瞬間、ジャックはプッと噴出した。
「もう。又、そんな顔して僕を困らすんだから」
少し酔っている彼の目はトロンとしていて、さっきまでの身の上話をしていたせいか、大きな瞳はうるうると潤んでいる。相手は男性だと言うのについ見とれてしまっていた事に気付いた叶子は、又頬を赤らめて下を向いてしまった。
「だ、だって貴方が、……そんな変な事言うから」
ソファーが軋む音で彼が立ち上がったのがわかる。叶子が顔を上げると、ジャックの大きな手が伸びる。彼女に覆いかぶさるように黒い影に包まれると、彼女の心臓がより早く鼓動を刻んだ。
(え? な、何? 何!?)
息をする事も忘れ、また俯きながら肩を竦める。彼女の期待も虚しく、その手は彼女の後ろに置いてあるバッグへと伸びていた。
「この家の隣にゲストハウスがあるんだ。もう部屋は準備出来てると思うから、良かったら泊まって行って」
「ゲ、スト、ハウス……?」
「そう」
親切心で言ってくれている彼に対し、少し拍子抜けしてしまっている自分の気持ちを急いでかき消した。
「いえ! 流石にそれは」
「僕は明日、――といっても今日か。仕事で居ないから、帰る時はスタッフに声を掛けてくれればちゃんと君の家まで送るように伝えておくからね」
白い歯を見せてそう言うと、彼女のバックを持った彼はリビングの扉を開け「こっちだよ」と合図するようにクイッと首を傾げた。
◇◆◇
長い廊下を又二人で歩く。
来た時と違うのは、もうすっかり廊下の明かりが落とされていたという事だった。
「今日は楽しかったよ、有難う」
「こちらこそ……。私も凄く楽しかったです」
(はぁ、楽しい時間ってあっと言う間だなぁ)
少し前を行く彼の後ろをついて歩く。背中を向けながら話し出した彼の表情は見えないが、声のトーンが先程までとは少し違った感じに聞こえる。何処か寂しそうな……、そんな感じだった。
(もしかして、私と同じ事思ってくれて……るわけ無いか)
「良かったら、また会えるかな?」
まだまだ話し足りないと思っていたのはきっと自分だけだと思っていたが、そんな言葉がジャックの広い背中から聞こえてきた途端、自然と叶子の顔から笑みが零れ落ちた。
「は、はい!」
今、彼に振り向かれたら確実に変な目で見られるだろう。自分でもそう思うくらい、叶子は満面の笑みを浮かべている。口元を手で覆いながら下を向いた状態で彼について歩いていた。
すると、又もや彼が突然ピタッと止まる。気付くのが遅れた叶子はまた彼の背中にぶつかってしまった。
「――っ、ご、ごめんなさっ……!」
急いで後ろに下がろうとした時、ジャックが振り向きざまに叶子の腕を掴んでぐっと引き寄せられた。移動しようとしていた方向とは逆の方向に引っ張られた事で足元はおぼつき、いとも簡単に彼の胸元に飛び込む形となった。
一瞬にして彼の甘い香りと、アルコールの香りに包まれる。そして、体全体で彼の体温を感じると叶子は一歩も動けなくなってしまった。
「あ、あの」
「会いたかったんだ。……とても」
彼女の問いかけを遮るように、ジャックが切なそうな声で耳元で呟いた。と、同時にぎゅっと強く抱き締められ、叶子の長い髪に彼の鼻先が埋まった。呼吸をする度甘い吐息が彼女の髪を通り、容赦なく首元を刺激する。それだけで叶子は膝が震えてしまい、立って居るのがやっとの状態だった。
「あ、の」
自然と彼の胸に置く形となった手は彼の鼓動を、体温をつぶさに感じている。ほんの少し早く刻んでいた彼の“音”は、次の瞬間、更に早まったのが手を通じて伝わってきた。
「君は? 僕じゃダメ? かな」
「……え?」
彼は少し距離を取ると彼女の両肘を持ち、じっと叶子の目を見つめている。窓から差し込む月明かりだけが、お互いの顔をうかがい知る唯一の明かりだった。
「僕は、君の恋人にはなれない?」
「へっ!?」
『最初の奥さんは本当に愛してた』とか『僕には勿体無いくらい素敵な人だった』とかそんな話を散々聞かされる度、これはきっと『俺に惚れるなよ?』という牽制だと思っていたが、実はそうではないらしい。この流れからしてこんな事を言われるとは想像すらしておらず、叶子は何と答えれば良いかと目を白黒させていた。
『冗談でしょう?』と口から出かけて飲み込んだ。何故なら叶子からの返事を待っている真剣な彼の眼差しが、冗談で言っているとは到底思えないからだ。
ジャックの少年の様に澄んだ目を直視する事が出来ず、俯きながら髪を耳にかき上げ言葉をさがした。
「あ、あの……」
「……」
「えと」
叶子が困り果てているのを察したのか、ジャックは叶子の手を取るとまた長い廊下を無言で歩き出した。繋がれた手をどうこうするよりも、彼女は彼に言われた事に対してどう答えればいいのかわからない。無言の時がこれ程までに息苦しく、そして長く感じるのだと初めて知る。どうすればこの状況から脱することが出来るのだろうかと、廊下を歩く間中ずっと考えていた。
玄関を通り、隣接するゲストハウスへ向かう。入口に足を踏み入れるとジャックは振り返り、叶子の両手を掬い上げた。
「突き当たりの部屋が君の部屋だから好きに使っていいよ。あと、……さっきの返事はゆっくりでいいから。時間をかければかけるほどいい返事が貰えるなら、何日、何年だって待つからね」
そう言うと一歩足を前に踏み出し、彼女の頬に軽くキスを落とした。「おやすみ」と言って微笑むと、また元の所へ戻っていった。
「おやすみ、なさい」
彼の唇が触れた頬に手をあてながら、叶子は次第に小さくなっていく彼の後姿を見えなくなるまでずっと眺めていた。
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