第14話~彼の過去~

 その辺のレストランに引け目を取らないおいしい食事を味わった後、ジャズが流れる暖かなリビングでワインを嗜む。時が経つのを忘れてしまうほど、叶子はジャックの話に夢中になっていた。いつもならとっくに眠りについている時間だというのに、あくびすら出てこない。それだけ、彼がする話は叶子に興味を持たせるものばかりであった。


「でね、その後……」


 彼の話を遮る様に、誰かがこの部屋の扉をノックする音が聞こえた。


「はい、どうぞ」


 開かれた扉の向こうには、小さくて小太りの初老の女性が立っていた。


「おや、やっぱり。お帰りなさい、坊ちゃん」

「ああ、グレース。起こしちゃったかな? ごめんね」

「いえいえ、丁度目が覚めて水でも飲もうとして来たら話し声が聞こえてきたので、ちょっと様子を伺って見ただけですよ」

「そう? ならいいんだけど。……あとさ、客人の前で僕の事をそういう風に呼ぶのを止めてくれる?」

「そういう風にとは?」

「その……、子供みたいな呼び方だよ」


 ジャックは口を尖らせて不満気な顔をした。なんだかその様子が可愛らしくて、この女性から子ども扱いされているのが良くわかった。


「おやおや、お気に召しませんでしたか。それでは今後は気をつけないと。で、そちら様は坊ちゃんの恋人と言う事ですかな?」

「ちがっ! と、突然、何言うの!? もう彼女に失礼だよっ!」


 虚を衝かれたのかぶわっと一気に顔を真っ赤にしたジャックは、このグレースと言う名の女性に弄ばれているかのようだった。そのやり取りからして彼との付き合いの長さが感じられる。


「ほほっ、邪魔者は退散しますかな。どうぞごゆっくりしていって下さいませね」


 叶子ににっこりと微笑んだ顔は皺だらけで、その皺の数だけ彼女が今まで歩んできた人生を物語っている様だった。


「グレース!」


 ジャックは声を裏返らせながらグレースの名を呼ぶが、無情にもその扉は閉められてしまった。

 グレースが居なくなった途端、まるで間が持たないと言った感じでジャックはワインをグラスに一気に注いだ。


「もうっ! グレースはいつもああなんだから」

「凄く優しそうな人ですね。貴方の事を良くわかってらっしゃるみたいだし」


 ワイングラスをテーブルに置き溜息を一つつく。少し乱れた髪と、お酒が入って目がトロンとしているジャックは、どの仕草一つをとっても様になるなとつい見とれてしまっていた。


「日本ではあまり馴染みがないかもしれないけど、彼女はねグレースっていって僕の乳母なんだよ。僕がうんと小さい頃から身の回りの世話をしてくれている」

「そうなんですか」


 そう言った後、先程子供扱いされたのが余程悔しかったのか、ジャックの眉間がグッと深い皺を刻んだ。


「未だに僕が小さい子供だと思ってるんだよね」


 彼女から視線を逸らすと、長い両手を広げソファーの背にもたれながら足を組んだ。ツンと口を尖らせて顔を赤くした彼は本当に子供の様だ。紳士らしい振る舞いが板についていて、うんと大人なイメージを叶子は勝手に抱いていたが、また違った別の一面を持っている。しかもそれが両極端と言うのがなんともおかしくて、いつしかそんなジャックに叶子は夢中になってしまっていた。

 少なくとも次の言葉を聞くまでは……。


「僕はもう三人の子供を持つ父親だって言うのに」

(えっ? 今なんて??)


 叶子の表情が変わったのを察したのか、ジャックは叶子の方へと身体を向き直し組んでいた足を解くと、肘を膝についた姿勢でジャックが話し出した。


「あの、僕には子供が三人居てね。……実は結婚に二度失敗してるんだ」

「あ、そ、そうなんですか」


 平静を装ったつもりだったが、叶子の顔は明らかに動揺している。


(子供が三人? 二回結婚に失敗? ――そ、そりゃそうだよね! これだけ素敵な男性を世の女性が放って置く訳がないもの。何でそんな事も思いつかずに、彼に夢中になっていたんだろう……)


 彼に子供がいるって話を聞いて痛んだ胸が、何かしら彼とのこれからを期待していたのだと思い知ると、身の程知らずな自分が滑稽に思える。どう考えても、彼と自分では身分から何からつり合わないというのに。


(上手く息が出来なくて……苦しい)


 手にしたワイングラスの中の液体が小刻みに波打っているのをただじっと見つめて、心の痛みを逃がす術をさがしていた。


「もうこれ以上、辛い思いはしたくないって思ったんだ。だから……」


 ジャックが何かを言いかけたが、慌てて手で口を塞いだ。


「?」

「い、いや、うん。……なんでもない」


 彼の過去を知って叶子は少し動揺してしまったが、ちゃんと目を見て話してくれているのを見ると隠していた訳ではないとわかる。改めてジャックの誠実さが垣間見えた様な気がした。

 彼の事をもっと知りたいのに、知らなくていい事まで知ってしまいそうで少し怖い。でも、叶子はもう自分ではどうにも制御出来ない所まで来ているのを、薄っすら感じていた。









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