第8話~加速する想い~

 暖かく暗い車内。

 わずかに感じる揺れが、少し酔った彼女をいとも簡単に眠りの淵へといざなう。

 ──誘惑に負けてはダメ。

 そう思ったのも束の間、彼女は深い眠りへと落ちていった。




 最寄り駅の名前だけ彼に告げると、この間のCDショップで一緒にいた恰幅の良い男性に、彼がそのまま伝えた。

 暖かく暗い車内と少しの揺れが、あっという間に彼女の意識を朦朧もうろうとさせる。何度も落ちてくる瞼を手で押さえては必死で耐えていた。


「眠い? 寝てていいよ、ちゃんと着いたら起こしてあげるから」


 肘掛についた手の上に顎をのせ、窓の外を見ていた彼は、まるで母親の様な笑顔でそう言った。しかし、幾らなんでも初めて会う人の横でいきなり眠れるわけがない。眠いのは事実だが、この時間を寝て過ごしてしまうのはどう考えてももったいないと叶子は思った。


「だ、大丈夫です」


 彼に見えないよう、小さなあくびを一つ。赤くした目で瞳を潤ませながら彼にそう言うと、クスッと笑ってまた外の景色に視線を移した。


 車の窓ガラスに映る彼を横目で盗み見しながら、落ちてくる頭を何度も持ち上げる。酔いも手伝ってか叶子の頑張り空しく、あっさりと眠りの地に着いた。




 ◇◆◇


 肩に何かが触れるのを感じて振り向くと、彼女の頭が何度も倒れてきては起き上がるを繰り返している。


 「困った人だ」


 決して悪い意味ではなく、遊び疲れて眠る無邪気な子供の様な――。と、そんな意を込めてポツリと呟いた。

 ジャックはそっと彼女と距離を縮めると、次に彼女の頭が落ちてくる瞬間を狙ってそっと自身の手を彼女の頭に添えた。

 すると、自然とここが落ち着く場所なんだと理解したかの様に、そのまま彼の肩に頭が埋まる。膝の上にしっかりと組んでいた華奢な手は、ポトリと解けた。


 彼女の髪の香りがより一層広がる。

 さっきは手を伸ばそうとして慌てて引っ込めたが、今度はなんだか許してもらえるような気がする。

 そんな風に思うなんて、もしかすると自分は酔っているのかもしれないと思いつつも、元々我慢すると言う事が苦手な彼はこの衝動を抑えることが出来ず、ゆっくりと指先を伸ばし始めた。


 彼女の指先にそっと自分の指を触れさせると、車の揺れにあわせてその指を少しずつ這わせていった。ピクリと彼女の指が動くと彼も又動きを止め、ゆっくりと、決して起こしてしまわないように、そーっと彼女に触れていった。


「……」


 彼の大きくて暖かい手が小さくて華奢な彼女の手にピッタリ重なると、彼は満足気に微笑んだ。



 ◇◆◇


 車の揺れが感じなくなった事で、うっすらと叶子の意識が戻ってきた。目の前に現れた景色が見たことの無いものというのはすぐに気付いたが、右手に感じる暖かいものが何なのかを理解するのに少し時間を要した。

 頭を上げて横を見ると、ぼんやりした景色の中で自分を見つめている誰かを感じる。やがてその輪郭がはっきりとし、その誰かが彼だという事に気付いた。


「おはよう」


 満面の笑みで彼が言った。


「あっ、ごめんなさ──ぃっ!?」


 言いかけて手元へ視線を落とすと、彼の手をしっかりと自分の手が握り締めているのに気付き、慌てふためいた。


「ご、ごめんなさい!」


 てっきり、寝てる間に自分から握ってしまったんだと勘違いして、慌ててその手を振りほどいた。

 眠ってしまったのもさることながら、無意識とはいえ勝手に手を握ってしまったことを思うと恥ずかしくて居ても立っても居られない。

 ああ! もうこの世から消えて無くなりたい!

 と思うほど叶子にとっては耐えられないほどに恥ずかしく、とても破廉恥な出来事に思えた。


 そんな叶子と対照的に、彼はきょとんとした表情で彼女を見つめている。やがて謝った訳を理解したのか、悪びれもせず彼女に問いかけた。


「ああ。……手?」


 その言葉を聞いて又、体がカーッと一気に熱くなる。

 軽い女だと思われているに違いない。取り返しのつかない失態を犯してしまったと、自身を恥じた。

 恥ずかしさで赤くなった顔を見られないようにと伏せていると、頭上から信じられない言葉が聞こえた。


「これは――、僕が君と手を繋ぎたくなったから、僕から握ったんだよ?」

「……はい?」


(い、今なんて??)


 顔を上げてみると、彼は変わらずニコニコと微笑んでいる。叶子は何を言われたのかイマイチ理解することが出来ず、大きな目をぱちくりとさせていた。

 反応がない事に心配になり、彼は苦笑いを浮かべている。


「もしかして、迷惑……だった?」

「……、──っ!」


 やっとコトの事態を理解したのか、すぐさま頭を左右に振った。


「良かった」

「……」


 ほっとしたような表情で微笑む彼。彼の笑顔を見るたび夢中になっていく自分が、なんだか怖くも感じた。


「あ……っと、そう。もう着いたんだった」

「あっ、」


 背筋をピンと伸ばしキョロキョロと車の外を見渡す。いつもの見慣れた景色が目に入り、今度こそお別れの時間ときがやってきたのだと知った。


「今日は本当に、ご馳走になってしまって……。しかも、送って頂いてありがとうございました」

「いえいえ」


 叶子が車から降りると、彼もさも当然の様に降りて彼女側に回りこんでくる。彼が何か言いたそうにしているのがわかりまだCDと傘を返していない事に気付いた叶子は、慌ててバッグから取り出した。


「あ、これ返さなきゃ」


 CDを差し出すが、何故か彼は受け取ろうとしない。


「ああ、うーん」


 この期に及んで、腕を組みながらしばし何か考えている様子だ。今日の目的はこのCDを返すことだと言うのに、彼は一体何を渋っているのだろう?

 頭を傾げた叶子に、何かいいことを思い付いたと言うようにパチンと指を鳴らした。


「今日は見なかったことにするよ」

「え?」

「又、今度返して」


 そう言うと胸ポケットから名刺とペンを出し、スラスラと何かを書き始めた。手渡された名刺には、彼の携帯番号らしきものが書かれていた。


「もし良かったら、電話してくれるかな?」


 みるみる叶子の口角が上がっていく。冬の寒さなんてどこかに行ってしまった様に、ポカポカと体が暖かくなってきて嬉しさで溶けてしまいそうになった。


「……は、い」

「じゃ、待ってるから」


 ───おやすみ。

 そう言うと、車に乗り込んだ彼はすぐに窓を下げ、「じゃあ」と言いながら手を上げた。それに応えるように、叶子は胸元で小さく手を振った。

 テールランプの明かりが見えなくなるまで、その場を動く事が出来なかった。






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