第9話~謎~

「はい、有り難う御座います。いえ、――では失礼します。……ふぅっ」


 今日も朝からけたたましく電話が鳴り響く。一段落ついたのを見計らってもらった名刺を取り出し、昨晩の出来事を思い出していた。

 以前貰ったものと同じく社名と名前だけで特に肩書きは記されていない。だが、彼の立ち居振る舞いや高級ホテルでの顔の広さから推測して、違う世界にいる人間なんだろうと思ったと同時に、自分には絶対手の届かない人だということは言葉にするまでもなく理解しているつもりだった。

 なのに、頭の中は気付けば彼の事で一杯になってしまう。やさしい眼差しで微笑みかけ、穏やかな口調で語りかける。叶子の手をすっぽりと包んでしまうほど大きな彼の手は、男性とは思えないほど柔らかく、そして温もりを感じた。


(素敵な人だなぁ)


 心ここに在らずな叶子の手から彼の名刺が取り上げられ、やっと我に返った。


「何これ?」

「ち、ちょっと藍子、返してよ」


 よりによって一番見られたくない相手に見られてしまった。急いで名刺を奪い返すと二度と取られまいとすぐにバッグの中へと仕舞い込んだ。


「──あんた、その人と知り合いなの?」

「え?」


 さも、彼の事を知っているかのような藍子の口調に、ゴクリと息を呑む。藍子は叶子のマウスをおもむろに掴むとパチパチとキーボードを叩き、何やら検索を始めた。

 彼の会社名を検索窓に打ち込んでいくのをただひたすら息を呑んで見つめている。エンターキーが押されたと同時に彼の会社名が画面一杯に表示され、藍子はその中の一つを選択した。


「やっぱり。ほら、その名刺の人ってこの人でしょ?」


 食い入る様に画面を覗き込むと、そこには彼の画像と会社の詳細が事細かく書いてあった。驚いた表情で画面を見つめている叶子を見て、藍子は返事を聞かずともこの人物と名刺に記された人物が同一人物だとわかった。


「あんた凄いじゃん。こんな大物とどうやって知り合ったの?」

「どうやって、……って」

「ね、ね、この人とどういう関係? ……もしかして付き合ってたりすんの?」


 デスクに両手をついて叶子の顔を覗き込みながら、小さな声で聞いてくる藍子の表情は、言うまでも無く興味深々な様子だった。


「そ、そんなわけないでしょ! た、たまたま取引先で会って……ご挨拶しただけだよ」


 藍子に話してしまえば、あっと言う間に社内に広まるのが目に見えている。それだけは避けたいと思った叶子は体のいい嘘を吐く事で逃れようと試みるが、目を泳がせながら吐いた嘘は藍子に更なる興味を与えただけだった。


「……だよねー」


 藍子はデスクについていた手を離すと、腕を組み怪訝そうな顔で見下ろしている。早くこの話を終わらせる為に別の画面を開いて又仕事に取り掛かったが、藍子はまだ叶子の側から移動する様子は無かった。


「あのさ、」


 思わずピクッと肩がすくみ恐る恐る顔を向けた。と、同時に、遠くから藍子を呼ぶ声が聞こえてきて、竦んだ肩を一気に脱力させた。


「ほ、ほら、呼んでるよ?」

「……。 はーい、何ですか?」


 藍子は何か言いたげに横目で叶子を睨みつけると、呼ばれた方へと去っていった。


「ふぅ。危なかった……」


 藍子が立ち去ったのを確認した後、こっそり先程の画面をもう一度見返した。

 プロフィール欄は“不明”と記載されているものが殆どではあったが、少なくとも叶子がまだ知る事の無い彼がそこには沢山あった。


「……」


(これじゃ藍子の事を“ゴシップ好き”だなんて言えないや)


 自分のしている事が、余所様の家をこっそりのぞき見しているような気がして恥ずかしくなる。スクロールする指を止めると画面を閉じ、再び仕事に戻った。


(会いたいなぁ)


 胸の奥ではそんな感情で溢れかえっていた。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る