第2話

「すみません、遅れました!!」


大きくドアが開かれ、少女の声が部屋中に響き渡る。謝罪の言葉と共にきらめくブロンドを大きく揺らして、フラーは深く、その背中に背負うリュックサックが見えるくらいに深々と、頭を下げていた。


「私、図書室で本を読むのに夢中になってしまって……。慌てて教室に向かったんですけど、今日から実習に入るのを忘れちゃっていたので……」


しかしフラーの声に対しての返事はなく、代わりに囁くような笑い声が聞こえてきたので、彼女は不思議に思って顔を上げた。


まず彼女の視界に入ったのは、全面ガラス張りの空間に、所狭しと並ぶ植物たち。色取り取りの小さな実の成るホウズキや、ツタをうねらせる毒々しい紫色のアロエなど、見ているだけで目が回りそうな、まさに温室と呼ぶべき場所であった。


ここに初めて来たフラーが、あくまで温室ではないと判断出来たのは、入り口付近に大きな黒板が掛けられていたからであった。そこを温室たらしめるに相応しくない存在感は、ここが『教室』であって学問に勤しむ場であることを認識させてくれるのには十分であった。その証拠に、この教室には既に30人近くの生徒が詰め込まれており、彼らもフラーと同じく学院の学生であり、フラーの奇行に上がった笑い声の主たちもまた彼らであった。


「フラー!こっち、ここの席空いてるわ!」


その生徒のうちの一人、栗色のショートヘアの女の子が、立ち上がって手を上げフラーを呼んだ。羞恥に顔を赤らめていたフラーは、救われる思いでその少女の元へ駆け足で向かった。その途中、背中に抱える大きな荷物を何度もあちこちにぶつけながら、その度にぶつけた生徒に謝りつつつ、なんとか栗色の髪の少女の隣の席へと辿り着いた。


「ついてたわね。先生少し遅れるって」

「そうみたいね。席取っておいてくれてありがとう、ジャンヌ。助かったわ!」

「どういたしまして。でももう慣れっこだから、気にしなくていいわ。あなたが読書に夢中になって遅刻するのも、その本をたくさん詰め込んだリュックサックをぶつけられるのもね」

「もう、ジャンヌったら!」


ジャンヌの言葉に周囲の生徒たちがクスクスと笑うと、フラーは頰を膨らませてジャンヌに抗議の目線を送る。しかしジャンヌは「事実でしょう?」と言わんばかりに強気な様子で笑みを浮かべているだけで、フラーの怒りなど気にも留めていないようだった。

フラーはそれ以上は何も言わなかった。ジャンヌにこういう形でいじられるのもフラーとっては慣れっこだったのと、ジャンヌの言い分が最もだと思っていたからだ。

それに、他人との距離の測り方が下手なことを自覚しているフラーにとって、フランクな性格のジャンヌ=マーマレードのからかい方は戸惑いこそ感じはするものそれなりに心地よく、悪い気分はしないのであった。


フラーはため息を吐いて苦笑いしながら、背負っていた荷物を今度こそ周りにぶつけないようにそっと降ろした。


「机の下、スペースあるから荷物しまっておきなよ」

ジャンヌとは反対側の隣に座る生徒がそう教えてくれたので、フラーは言葉に甘えて荷物を滑り込ませた。

お礼の返事をしようとした瞬間、教室の扉が開いて誰かが入ってきた。

フラーは慌てて体を起こして口の形だけでその生徒にありがとうと伝えると、前を向き、今しがた教室に入って来た人物を探した。

見れば、教室に入って来たのは他でもない『魔法薬』の先生であるハーブリーファだった。

ハーブリーファは抱えていた荷物を教壇の脇に置くと、申し訳なさそうに口を開いた。


「えー、遅れてすみません。出欠の確認だけするので少し待って下さい」


大柄な体に似合わず、ハーブリーファは優しそうな口調で生徒たちにそう言った。

フラーは遅刻して先生の前で赤っ恥をかかなくて済んだことに胸を撫で下ろしつつ、先生が再び声を上げるまで周りの植物達でも眺めて待っていようと思った。


「フラー=カルティベータさん!」


唐突に名前を呼ばれて、フラーは慌てて立ち上がった。


「は、はい!何でしょうか先生!?」


不意を突かれて上ずってしまい、それを聞いたジャンヌが隣で笑いを堪えているのが分かって、フラーはまた顔を赤くした。


「ああ、良かった。ちゃんと来ていましたね。出席名簿に名前、書き忘れてましたよ」


カルティベータは紙の貼り付けられたボードを小さく掲げて、フラーへと見せた。


「出席しているのでチェックしておきますね。移動教室の際は出席確認を怠らないように」

「すみませんでした、気を付けます……」


より一層、今度は耳まで真っ赤にしながら、フラーは今日何度目か分からない謝罪を述べると、結局先生に恥ずかしいところを見せてしまったことを、心の中で猛省した。

フラーは先生に促されて着席すると、ジャンヌが横で必死に笑い声を抑えながら腹を抱えていた。

フラーは無言で恨みを込めた肘鉄を脇腹にお見舞いした。


フラーの失策にカルティベータはそう怒った様子もなく、出席名簿を教壇の上に戻すと、一歩進んで生徒たちへと向き合った。


「よろしい。それでは間違いなく全員が揃ったところで、『魔法薬』の実習を始めていきましょう。みなさんはこの授業の実習は初めてでしたね?」


ハーブリーファが尋ねると、クラス全員が首を縦に振った。

教壇の前をゆっくりと歩きながら、ハーブリーファは諭すように説明を続ける。


「魔法薬の授業で取り扱う植物に関しては、以前の授業で学んだ通りですので、特別に怖がる必要はありませんが、それこそ勉強した通り、扱い方を間違えてしまうと大変悲惨なことになりかねません。作業の前に私が指示を出しますので、それを聞き漏らすことのないように!」


再度、生徒たちは頷いた。


「シューメイカー。『油豆』を収穫する時、この植物の気をつけるべき特性は何でしたか?」


ハーブリーファは一番前の席に座る小柄な男子生徒に聞いた。


「えっと……。肌に油が直接付くとかぶれたり、目に入ると炎症を起こしたりする?」


ハーブリーファはその答えに嬉しそうに微笑んだ。


「よろしい、その通りです。なので防護用のゴーグルと手袋を着用しましょう。口に入らないようにマスクもですね。油が舌に着くと両方の意味でとっても『マズい』ですからね」


ハーブリーファは教壇の横に置かれた箱から徐にゴーグルと手袋をいくつか引っ掴むと、一番前に座る生徒たちの机に適当に並べ始めた。


「どんどん後ろに回して下さい!次にマスクも配ります。全員に配り終えたら、すぐに実習に入りましょう。さあ、ここからはテキパキいきますよ!」


フラーはワクワクしながら、ジャンヌからゴーグルと手袋を受け取り、自分の分は残してもう一セットを後ろへと渡した。

ずっと待ち望んでいた授業の始まりに、先程までのフラーの沈んだ気持ちはとっくに何処かに消えてしまっていた。



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