10. 水族館

 一月三日。

「ついに、来てしまったか……」

 俺のノートに記されていた『伝説』の通りならば、今日が紘編こあみと過ごせる最後の日になる。

 いくら一緒にいたいと願おうとも。

 そもそも死者と一緒にいられること自体があり得ない出来事で。

 だから、終わりがあるのも当然なのかもしれない。

 それでも。

 現実は変わらないものだとわかっているけれど。

 別れは、辛い。

「どうしたの」

 ソファで座っていた俺を紘編は覗き込んでくる。

「いや、最後の日だなって……」

 短い言葉だけれど、俺の気持ちを伝えるのには十分だ。

「そんなに深く考えることかなぁ」

 そう言いながら、紘編は俺の左隣に腰掛ける。

「だって、私は本当はいないはずなんだよ? いないはずの人間がいなくなっても何とも思わなくない?」

 俺の不安をやわらげようとしているのだろう。

 けれど、人間の気持ちは単純ではない。

 思ってしまったら、その気持ちは事実なのだから。

「それでも、悲しいものは悲しい」

 俺の本音だった。

「……そっか。でも、私がいなくなることは変わらないし」

 紘編は軽い口調で、残酷な事実を告げる。

「最後に、思い出を作ろっか」

 紘編は笑顔でそんな提案をする。

 しかし、その笑顔は、何処か、寂しそうだった。


 ◇ ◇ ◇


 最寄りのバス停からバスに乗って三十分。

 目的地に到着した。

「水族館か」

 着いた場所は、隣町の水族館。

 決して大きくはない、というか、むしろ非常に小さな水族館だが、家から一番近い水族館でもある。

 そのため、子供の頃によく来た場所だった。

「そ、水族館。懐かしいでしょ」

「ああ」

 俺の両親と共に、何度か紘編と来たことは何となく覚えている。

「じゃあ、入ろ」

 紘編に連れられてチケットを買い、俺たちは水族館に入った。

 小さな水族館なので、道なりに行けば一通り見ることができる構造になっている。

 最初に出迎えてくれたのはクラゲだ。

「何この紫のやつ。『ムラサキクラゲ』だって。おもしろ~い」

 そのままだな。

「あ、隣は『ハナガサクラゲ』だって。綺麗~」

 紘編は一人できゃっきゃと騒ぐ。

 いつものように元気で、可愛いけれど。

 ふとした瞬間に、今日で最後だという事実が思い出される。

「あ、あの小さい水槽にいるのは何だろう」

 紘編は次々に先へ進み、興味深そうに見ている。

「クリオネだ~」

 クリオネって水族館にいるものなのか?

「ねえ、あいちゃん。クリオネって、何て言われているか知ってる?」

 俺はちらっとクリオネの説明文を見る。

「『流氷の天使』だろ?」

「さすが、物知りだね」

 クリオネの説明の文章に書いてあったとは言わないでおこう。

「でもね、食事中は天使というより悪魔っぽいんだよね~」

 子供の夢をぶち壊す要らない情報をどうもありがとう。

「……ねえ、手、繋がない?」

「……え?」

 急な提案に、俺は戸惑う。

「言ったよね? 思い出を作ろうって。私はもう二度とここに来ることもないし、相ちゃんと会うこともできなくなる。だから――」

「いいよ」

 紘編の言葉を遮り、俺は返事をする。

 紘編がしたいのならば、俺が断る理由はない。

 俺はただ、紘編が後悔しないように今日を過ごして欲しいだけだ。

「じゃ、じゃあ、いくよ?」

 いつもは元気なのに、こういう時は恥ずかしがる。

 けれど、そんな紘編も可愛い。

「えいっ」

 紘編は右手で俺の左手を掴む。

「えへへ、あったかいね」

 少し照れくさそうに紘編は言う。

 俺は紘編が嬉しそうにしているのを見て安心しながら、逆に不安を募らせていた。

 その後は、二人で並んで水族館を回っていった。

 紘編は

「アザラシ可愛い~」

「ペンギン可愛い~」

「タコは、可愛くない……」

 とか言いながら楽しそうに見ていた。タコ可哀想かわいそうに。

 そんな感じで、一通り見て回った頃には、すっかり日が沈んでいた。

 時刻は午後四時半を少し回った頃。

 紘編と会えなくなるまで、残り約七時間半だ。


 ◇ ◇ ◇


 家に帰り、夕食を摂る。

 今日のメニューはカレーだ。

 いつも通り紘編が作ったもの。

 でも、紘編の料理が食べられるのは今この瞬間が最後だ。

 カレーをゆっくりと味わう。

 隠し味に何を入れたのかわからないが、非常に味に深みが感じられる。

 美味しかった。

 けれど。

 江河えがわ紘編とは。俺の彼女とは。

 実感は湧かないけれど、今日でお別れだ。

 だから、この味を二度と忘れないよう、しっかりと舌に刻んだ。

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