猛暑日vs僕ら
あずき
第1話 三ツ矢サイダーの戦い
その日の昼休みの教室は、いつもよりずいぶんと静かだった。
お昼ご飯を食べ終えても、自分の席を立たない生徒がほとんどだった。勉強だったりゲームだったり、やっていることは各自バラバラだが、みんな同じようにどこか険しい表情をしている。
ある者はB5サイズの赤シートを自分の顔に向けて振りつづけ、またある者は着ているYシャツを脱ぎ捨てようとして、それを阻止せんとする友達との決死の攻防を繰り広げている。
「おい、たのむよ!脱がせてくれ!もう我慢の限界なんだ!」
彼は悲痛な声をもらしながら、その坊主頭を襟口に押し通そうと必死だった。
「駄目だ!そんなとこ、ヤマ先に見られたらどうなるかわかんないぞ!」
そう叫んだのは、これまた坊主頭だった。坊主頭といえば野球部、野球部といえば、スパルタ指導で有名な山田教諭である。彼に上半身裸でほっつき歩いているのを見られようものなら、停部処分は避けられないだろうと思われた。
その言葉で我に返ったのか、その坊主君はようやく抵抗の手を止めた。
軽い騒動の最中、他のものたちは皆、うるさいぞと止めに入る気力もなく、ただ静かに同情のまなざしを送っていた。
赤シートをうちわにしていた女子生徒が、ぽつりと呟いた。
「今日、暑すぎ…」
その呟きは、意外なほど広く教室に響いた。彼女に言葉を返したものこそいなかったが、きっとみんな心の中でうなずきの声を漏らしたに違いない。
かくいう僕も、机に顔を突っ伏しながら、心の中では全力で首を縦に振っていた。
うん、今日は暑い。本当に暑い。エジプトの砂漠に放り出されたのかってくらい暑い。
後の夜のニュースで知ることになるのだが、この日は最高気温が41度を記録したらしい。これは僕たちのすむ“たたら町”の歴代記録を5度以上も上回るものであり、いわずもがな異常気象であった。地球温暖化、許すまじ。
そして僕らは今、昼休みが始まって十分ほどたった午後一時過ぎにあって、まさにその灼熱の世界の真っただ中にいるのだった。
僕の首筋を一つ、また一つと汗の粒が流れていく。水をいくら飲んでも、すぐにまた喉が渇いてしまう。朝買った三ツ矢サイダー(500ml)はもう半分も残っていなかった。
僕は寝そべりながら机の上のそれを、自分の頬に押し当ててみた。半ば分かってはいたが、頬がかすかに濡れただけで、もうそこにかつての冷たさはない。
手から放たれたペットボトルは、机の上をごろごろと転がった。そのまま落ちるかと思いきや、寸前のところで止まり、中の液体とぐらぐら揺れ合って落ち着かない。
僕はじれったくなって、そいつをぴんっと指で弾いいた。ぽてっと転がって落ちた。
するとひらけた視界の先、緑の木々たちが、開け放った窓枠に、まるで静止画のようにのっぺりと張り付いていた。
揺れる木の葉の音でも聴きたいところであったが、いくら待てども、一向に風の吹く気配はなかった。
その代わりに流れてくるのが、この夥しい数の虫の鳴き声である。
これ以上聞いていると、十分ともたずに頭がおかしくなりそうであった。せめて“ようつべ”で、川のせせらぎBGMでも聴くかと思い、ポケットの中にイヤホンを発見した、そのとき。
虫の音に交じって、後方から断末魔のようなうめき声が聞こえてきた。
「み、みず…。誰か、みずを分けてくれ…」
どうやら僕の他にも一人、砂漠で遭難している人がいるようだった。無論、僕にはその声の主が誰か分かっていたし、もっと言えばそいつのことはもう嫌と言うほど知り尽くしていたが、しかし決してその願いに答えるわけにはいかなかった。
代わりに僕は、床に転がっていた三ツ矢サイダーを素早く拾い上げ、そいつを自らの口につけた。
背中に射抜かれるような視線を感じながら、サイダーをその甘みとともに、急いでのどの奥へ流しこんだ。口の中で、生ぬるい炭酸がぷつぷつとはじけては消えていく。
しかし残りが五分の一を切ったかどうかというところ、突然Yシャツの袖が力強く後ろに引っ張られた。その拍子にあやうくサイダーを気管で飲みこみかけて、僕はごほごほとむせ返った。
来たな、と思いつつ振り向くと、そこにあったのは、我が友、岩渕コウタの見慣れた顔であった。
しかしいつもと違い、その顔はなんとも苦しそうに歪んでいる。そこから伸びたぷるぷると弱々しく震える右手が、僕の袖をがっちりつかんで離さない。
「…なに」
「た、頼む。み、水をわけてくれ…」
彼の手をどうにか払うと、彼は今度はその手のひらを、くいくいと内側に曲げ伸ばしした。
「お前、まさかこんな日に水を持ってきてないのか」
「た、たった今切れたんだ」
いかにも彷徨える砂漠の旅人といった声色だが、しかしその苦悶の表情には、そこかしこにわざとらしさが漂っている。はあ、と僕は内心ため息をついた。
こいつの狙いはおそらく、渾身の演技(彼なりの)で僕の同情を誘い、然るのちこの三ツ矢サイダーを自らのものにせしめんと言ったところだろう。
「な、何か飲まないともう死にそうなんだ…」
岩渕は一度こうなったらそう簡単に引くような男ではない。だから、声をかけられる前に飲み切ってしまいたかったのに…。
無視するわけにも行かないので、僕はここで一つ相手に譲歩することにした。
「しょうがない、ひとくちだけね」
そのとたん彼は、まるで花火が弾けたようにぱっと笑顔になった。額を流れる汗が、きらきらと光っては落ちていく。
「おう!ありがとう友よ!“ひとくち”だけな!」
「…はぁ」
今度は直接声に出た。
十中八九、彼の苦しむ様は演技だったと思われたが、一度あげると言ってしまった以上、取り下げてあとでうじうじ言われても面倒だった。僕は汗でてかてか光る彼の顔と、手の内のペットボトルの中身を見比べてしばし考えた。
見たところサイダーの残りはあと三口半ほど(僕基準)。彼の言うひとくちを信用して、このまま彼に渡してしまうか。それともここで僕が今一度中身を消費し、ちょうど譲れる分だけ彼に残すか。はたまた前言撤回を試みるか…。
再び彼の顔をみると、眉間には限界までシワが寄り、口元はわなわなと震え始めている。僕にはもう新手の変顔としか思えないのだが、ともすればその口から「早くしないと俺は…」と本当に死にそうな声を出すから困る。
この男、人生を小学校のお遊戯会かなにかと勘違いして生きているようなやつで、どこまでが演技で、どこまでが本気なのかを見極めるのは非常に難しい。たとえ彼が今熱中症になるならないの瀬戸際にあるとしても、このようなふざけた頼み方をするように思われた。
結局僕は、この地獄みたいな暑さの中だし、彼の思うだけのひとくちを飲ませてあげることにした。まさかこの量を全部飲むことはあるまい、そう、彼の本性を深く慮ることなしに。
「ほらどうぞ」
そう、僕が手を差し出そうとしたその時。突然彼の目がカッと見開かれ、一瞬の間にそのペットボトルは僕の手の内から消えた。
驚いて見上げると、彼は手にした獲物を高々と上に掲げながら、にんまりと口角を釣り上げ笑っている。そして一言、
「サンキュー」
と高らかに勝利宣言をすると、口をあんぐりと開け、その上でペットボトルを勢いよく逆さにした。
「あ、待て!」と手を伸ばすも時すでに遅し。中身はみるみる彼の腹の中に収まっていき、ものの三秒ほどでペットボトルはすっからかんになった。
「ぷは~。やっぱ三ツ矢はうまいな!」
「お、お前…」
僕はうめき声とともに彼の腕を掴んだ。にらむようにして見上げると、彼はわざとらしいハテナマークを頭の上に浮かべている。
「ひとくちはひとくちだろ?」
それから先ほどとは違う、勝ち誇ったような笑顔を僕に向けた。額の汗の輝きもいくらか増しているように思えた。
「は、はは…」
どうやら僕は、まだこいつの何たるかを分かっていなかったらしい。僕は自分のお人好しなのに呆れ、また彼の傍若無人たる様に脱帽した。そして、彼の腕から手を放しながら、もう二度とこいつに飲み物食い物の類を譲りはしないと固く胸に誓った。
彼は、空の三ツ矢サイダーで僕の頭をぽんぽこしながら言った。
「ごみは俺が捨てといてあげるから」
「…あたりまえだ!!」
それきり、僕も彼も黙ってしまった。いったん会話が途切れると、その沈黙の上に再び、蝉の暑苦しい鳴き声がのしかかってくる。
岩渕の笑顔も、またすぐにしぼんでいくようだった。彼はペットボトルを頭にのせ、絶妙にそのバランスを保ちながらながら言った。
「蝉の声ってさ」
それは唐突な呟きだった。彼の頭の上で、赤と緑の三ツ矢マークが不安定に揺れている。
「いきなり、何?」
彼の視線は、伏せ目がちに窓の外に向けられていた。僕もその方へ首を向けてみる。しかしそこには木が立ち並ぶばかりで、特に目を引くようなものは無い。蝉の声だけが、先ほどまでと変わらず、僕らの間を流れ続けている。
その喧騒の中を、彼の声がそっと、静かに切り裂いた。
「なんかちょっと、寂しいよな」
その声は、不思議なくらいはっきりと僕の耳に響いた。はっとして振り返り、その顔を覗くと、彼は目をスッと細めて笑った。
頭の上から、ペットボトルがぽろっと落ちて、床の上を転がっていく。
それは僕が初めて聞く、彼の心からの本音だった。
面食らっている僕を前に、彼は落ちたボトルを拾い上げると、再びそいつを頭の上に乗せた。落ちないように首を右へ左へ動かす彼の様子は、さながらどこぞの国の曲芸師のよう。口をへの字に曲げ、顔はまたいつものふざけた表情に戻っている。
一方僕は依然として返す言葉をなくしたまま。けれども言葉の代わりに、僕は右手にこっそりOKマークを作って机の下に忍ばせた。狙うべき標的を視界の隅に見据え、最後に深呼吸を一つ、焦る心を整える。
そして一言。
「…ああ、そうかもね!」
その言葉を合図に、僕の右手は彼の頭上めがけて飛び出した。標的はすぐさまその眼前に現れる。そして次の瞬間、人差し指の爪から伝わる、ペットボトルの柔らかな感触。芯を捉えたという確かな実感。標的は岩渕の脳天を離れ、そのぽけっとした阿呆面の上を勢いよく飛んで行った。
僕は勝利の笑みを噛み殺しながら、岩渕が喚き出す前に素早く体を反転させた。それから椅子をガッと前に引き寄せると、ポケットから取り出したイヤホンを耳に差し込んだ。
何故だか音楽は、選ぶ前にもう流れ始めていた。
それは曲名がすぐには出てこない、でもそこはかとなくジブリっぽい、哀しげなメロディだった。
猛暑日vs僕ら あずき @azukisakuramoti
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