2. 追想、アイデンティティは一度拡散した
彼はサイドテールが好きだった。保育園の送り迎えをする母親みたい、というイメージがぬぐえなくて、この髪型は正直嫌いだったけれど、恋は盲目なのだ。それに加えて、自分に自信のないままずっと想い続けた相手である人の恋人という座に居座ることになってしまった私は、嫌われないでいたいと思った。
彼がいいというものに、なろうとした。なんだって変えた。髪を下ろしているほうが顔を隠せて好きだったものだから、可愛らしいヘアゴムなんて持っていなかったのに、急に増えた。
それでも自信の持てなかった私は、子供だましのおまじないにすがるようになった。彼の誕生石を模したものを、お守り代わりに多く身につけるようになったし、恋に効くコスメがあると知ったときはドラッグストアに入り浸った。今ではどの棚にどの化粧品があるかだとか、この店にはスキンケアが多くてコスメがない、あの店は新作コスメが並ぶのが早いとかいうことを網羅している。甘ったるい果実や花や砂糖を煮詰めて溶かしたような匂いのどろりとした香水、ごく淡い発色の桜色のチーク、体温で溶けるほど柔らかいラメがきれいなリップ。完全に化粧品メーカーのいいカモだ。
もともと好きだった、「女の子らしい」と言われる甘めのファッションは私にとって都合のいい鎧だった。背が低いことは当時の私にとってコンプレックスじゃなく、少し厚底の靴を履いても彼を越さないし、背伸びをするとかわいく見えるという長所を作り出していた。
連絡はすぐに返さないといけない、という使命感のようなもののせいで夜も眠れなかった。彼が、返事は早いほうがいいよねと友達と話しているのを聞いてしまったせいもある。返事が来ない間はまったく余裕がなくて、悪い想像ばかりがはかどる。ひとり泣いている間に寝てしまい、気づいたころには返信が来ていたなんて馬鹿な話も何度も繰り返した。でもあるとき、「返事早すぎ(笑) 暇なの?」と言われてしまい、ショックで寝込んだこともある。
恋をすると女性は綺麗になる、なんてものが私に当てはまらないのだということに気づいたのは、付き合い始めて五か月がたったころだった。私は綺麗になるのではなく、逆に周りが見えなくなって精神的に参ってしまい、ダメになるのだと気がついた。「それは愛情でも何でもない、依存だよ」と友達に言われた。「利用されてるよ」とも言われた。自分自身でも、奥底の本能ではわかっていたのか、離れなくてはいけないと思うようになった。でも体のどこかでは、離れたくないと必死に叫んでいるということにも気づいていた。ずるずるとまた、都合のいい女を演じる毎日に戻っていった。
そうして自己肯定感がどんどん低くなっていき、何もかも怖くなってデートをドタキャンした。いつの間にか私は「ごめんなさい」を繰り返すだけの機械に成り下がった。無音空間のはずなのに、頭の中では私を責める声が鳴りやまなかった。
何か音が欲しい、そう思って点けたテレビの中で笑っていた女優さえも恐怖を感じた。だけど、なぜかそれに惹きつけられていた。背筋がぴんと伸びて、透き通るほど白い肌とつややかな黒髪、それに映えるうつくしい赤色の唇は幸せそうな弧を描いていた。
ああなりたい、と思った。頭のてっぺんからつま先まで、彼女が神経を集中させているのが分かった。自分が一番、きれいに映るように。自信のなさなど、かけらも見せてはいけない。朗らかに笑っていたけれど、私の眼には戦場に咲いて必死に生き延びようとしている、凛とした花として映った。緑色の葉にすべる朝露が光り輝くようにまぶしかった。
朝から泣き通しで腫れ上がったまぶた、ぼろぼろになった肌、有害な煙が充満したようにぼうっとして鈍痛のつづく頭、掻きむしったり抜いたりしてぐちゃぐちゃになった髪、皮をむいて血のにじむ唇しかなかった私は、本当にその女優がうらやましかった。
うらやましい?
大勢の人に、画面の中で笑ったり話したりすることを許され、認められている彼女に羨望を抱いた。私は認めてほしかったのだ。私が勝手に、認めてほしい、そして認めてくれるだろうと期待した相手に。
口下手な私の話を、目を見て聴いてくれていた彼と目が合わなくなったこと。スマホばかり見ているから気を引きたくて手を握ったのに、無反応だったこと。友達や部活のグループの中で発言したとき、私のだけ反応がなくて聞こえていないように扱われたこと。自信のない人間の話など、誰も聞きやしないのだ、と痛感した。
認めてくれない、聞いてくれない、そんな生活が続いていたある日の部活終わり、一人で片付けをしていたときに、はたと気が付いた。そうか、私には、認めるも何も、発言する価値さえ、そこに存在する価値さえないのだ、と。思わず立ち止まった途端、猛烈な吐き気に襲われた。目の前が歪み、周りの音が、トンネルに入ったときのラジオみたくノイズが混じり、聞こえなくなった。たすけて、と動くのは唇だけで、声帯の震わせ方を忘れてしまったように、息だけがシューシューと通っていった。悟られてはいけない、迷惑はかけたくないと、グラグラ揺れる頭を必死に抑えて、誰もいない廊下のほうへ逃げ込んだ。そのまま、意識は彼方へ飛んだ。
次に目が覚めたのは、保健室のベッドだった。戸締りの先生が気づいてくれたらしかった。「大丈夫?」と優しくかけられた声に、堰を切ったように涙があふれた。それから随分長い間、私は子供のように声をあげて泣いた。先生は何も言わずに微笑んでいた。
その日から一週間、私は学校を休んだ。
そうして、全部から、逃げた。そうしなければ、きっともう私の思考は一直線に「死」に向かってゆく。というか、その頃はもう死んでもいいとさえ思っていた。歓迎されない場所で生きていくのがつらかった。他人の目がいばらのようにまとわりついて、突き刺さる。いばらを必死にかいくぐっても、体は血まみれの傷だらけになっていて、そんな私を見てまた人は遠ざかる。
耐えきれなかった。恋人から逃げた。引き留められなかった。部活もやめた。そっちはさすがに、いてくれなきゃ困ると言われたけれど、「もう遅いよ」と半笑いでかわした。もっと早く、必要としてほしかった。学校はさすがにやめられなかったけれど、もうそれで十分だった。
でも、全てが完璧にリセットされたわけではなかった。すぐに、何もかもから逃げて「しまった」という罪悪感が真っ黒な津波のように、心臓の奥で轟音を立てながら押し寄せてきた。飲み込まれてしまったが最後、何も手につかなくなった。私は何をしても、どこにいても、誰のテリトリーにも存在していなかった。好かれなくてもいい、忌み嫌われるなら、まだよかったのにと思った。このまま誰にも気づかれないのなら、いっそ『にんぎょひめ』のように、存在ごと泡になって誰の記憶からも跡形もなく消えてしまいたかった。
けれど、今になって考えてみると、たぶん私以外は何とも思っていなかったのだ。全部やめただとか、そういうことをしたことすら、きっと覚えていない。無視した、反応しなかったとかいうのも、私の妄想に過ぎないのかもしれない。
冷静な他人にはこんなふうに映っていたから、人に相談すると必ず「気にしすぎだ」と言われたのだ。でも当時の私にとっては、信頼している人からのその言葉はあまりにも軽く、突き放しているようにしか聞こえていなかった。
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