愛したきみのトラウマになる

甘柚

1. 装備と、ほんの少しの傷

 

 朝ごはんに、と作った苺のサンドウィッチは、家族に好評だった。みずみずしくまだ少し完熟手前くらいのしっかりとした苺と、甘くほわりと溶けるホイップクリームの相性は抜群。クリームはまだ余っていたので、蜜柑や黄桃、キウイ、パイナップルの入った缶詰もつかって、フルーツサンドも追加した。「また作ってね」と言われてしまったけれど、そろそろ苺の季節も終わる。じきに、冷たいフルーツポンチをねだってくるようになるだろう。気まぐれの早起きも、案外悪くない。


 家族よりも一足先に、ドレッサーとにらみ合う。ひと房だけはねた髪の毛を見つけて、昨日ドライヤーをなおざりにしたことを反省した。やんちゃしている髪の一束をピンで留める。メイクが終わったころにはたぶんおとなしくなっているだろう。

 崩れにくいベースメイクを終わらせて、しっかりまつ毛を上げ、ロングタイプのマスカラを丁寧に塗った。親しい友達と会うから、まぶたはブラウンのみでシンプルに仕上げてある。頬は塗らないのがマイブームだ。

 一番上の引き出しから取り出すのは下ろしたばかりの真っ赤な口紅。あの人に買ってもらった淡い桜色のはまだ半分以上残っていたけど、三日前に感情に任せて捨ててしまった。もう春も終わりなのだから、ちょうどいい断捨離だと思うし、まったく後悔はしていない。濡れたようなつやつやの唇で媚びる相手もいなくなってしまったから、グロスはいらない。ピンを外せば、計画通り髪のはねは収まっていた。

 開けてもらうとき怖くて痛かったピアスは、もう着け方も慣れた。今日着けるのは、チェーンの先にリップと同じ真っ赤なパーツが付いたもの。よし、と立ち上がったときにひらひらと揺れる涼やかで真っ白なワンピースの裾には、うつくしい光沢のある糸で刺繍が施されていた。光の加減で銀色にも見えるさりげないそれが私のお気に入りだった。


 iPhoneが震えた。光った画面には、「寝坊した、ごめん遅れる」とあった。すぐに、いいよという意味のスタンプを送って、電気ケトルのスイッチを入れた。少し考えて、「私も支度に時間かかってたから気にしないで」と追加で送った。当初予定していた電車には間に合わなかったから、嘘ではない。真面目な彼女は必死に準備しているのだろう、既読はまだついていない。

 予定は三十分、遅くて一時間遅れになるだろうけど、構わない。別に、時間が遅いと行列になる店に行くわけでも、映画や舞台に行くわけじゃない。それに、彼女は昨日遅くまであまり気の進まない種類の打ち上げだったのを知っていた。

 カチ、と小気味いい音を立ててお湯が沸く。セットの中から三秒迷って、ダージリンを取り出す。最近もらった紅茶のセットだけど、癖の強いものが苦手なせいでティーバッグの減り方が偏っている。ダージリンに合いそうなちょうどいい洋菓子は見つからなかった。カップに口をつけようとしたとき、塗ったばかりの口紅を落とす必要性に気づいたけど、家なので妥協した。落ちた分はあとで直せばいい。

 SNSを眺めつつ、まだしきりに湯気が立つ紅茶を飲む。SNS映えが大好物の、隣のクラスの女の子は朝からディズニー、何枚かスクロールした写真の中に、自分の靴と男物の靴が並ぶものがあった。背景に同化させて隠しているつもりの、「8months anniversary」の文字。

 それに気づいた瞬間に私はいいねもせず下に指を動かした。眉間に力が入っているのに気づいて、大きなため息が出る。ふとやってくるフラッシュバックの不快感は今もまだ消えない。一旦思い出してしまうと、連鎖的に落ち込んでしまう癖があった。すぐに画面を閉じて、ゆっくり息を吐く。


 もう出かけてしまおうと決め、あと少しの紅茶をあおるようにして喉の奥に流し込んだ。さっきは熱くてわからなかったけれど、ティーバッグを除くのが遅かったのだろう、いつもより随分と苦い紅茶だった。


 今日は気温が昨日と比べて低いと聞いていたから、黒地に花柄のガウンを羽織る。初めてのバイト代で買った、硬めの黒い革靴はようやっと靴擦れ期間が終了し、馴染む兆しが見えてきた。ノートもろくに入らないくらいの小さなワインレッドのショルダーバッグに口紅、ハンカチ・ティッシュ、財布と鍵、そしてiPhoneだけ突っ込んで外に出た。

 風薫るとはよく言ったものだなぁ、と思う。ぱりっとした、みずみずしいレタスみたいな新鮮な空気が、すうっとからだに入っては消えてゆくのがわかる。雲一つない五月晴れ。日焼け止めはきちんと塗ってきたけれど、それでも少し不安に思うくらいのいい天気で、吹き抜ける風だけが少しつめたくい。タンポポはそろそろ綿毛になって、こどもの息やこの風にでも飛ばされてゆく頃だろうか。

 伸びてきた髪が風のせいで顔にかかり、そろそろ美容院の予約をしようと思った。今度こそ、ショートにすると決めていた。


――君の好みと真逆の髪型だなんていうのは特に気にしていない。


 

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