9 エピローグ

  私は彼にたくさんの嘘を教えた。

  私がこうであって欲しいと願った理想のイーンの姿を。

 

 

 「どうしても行かなくちゃならないの?」とホタノは言った。彼女は扉に手をかけたまま動き出せずにいた。

 「そのためにイーンは君たちに体を残したんだ。この部屋にぐずぐずと残ってどうする。子供たちの多くは元気に旅立っていったじゃないか。君はみんなのお姉さんなんだろう。君が怖がってどうするんだ」

 「でも、怖いのよ」ホタノは正直に打ち明けた。「私がどれ程長くこの部屋にいると思うの?私が外の世界に生きたのは何百年も前のことなのよ。今更、外の世界に私の居場所があると思う?」

 「それでも行かなくちゃ。初めての場所は、誰もがきっと怖いものだけど、その先には必ず素晴らしい出会いが待っているから」

 「あなたがそうであったように?」

 「僕がそうであったように」

 「私はイーンの残してくれた魂さえ無事であれば良かったの。竜の心臓を必要としなかった。魂だけで子供たちを守ることができたから。私はイーンにそう言ったのよ。だからイーンはグムトたちに心臓をくれてやったの」ホタノは扉に手をかけたまま、なおももじもじと話を続けた。「闇が私たちを守ってくれたわ。秘密や傷や、心のすべてを覆い隠して。それなのにあなたは、日の当たる場所に出て行けと言う。それがどれほど恐ろしいことかわかっているの?」

 「闇は君たちを守っていたかもしれない。でもその代わりに、君たちはどこにも行くことができなかったじゃないか。先に進まなきゃホタノ。いつまでも闇に囲われているわけにはいかないよ」

 「あなたが言ってもまるで説得力がないことをわかっているのかしら?」ホタノは無理して皮肉を言った。「あなたは今や、この部屋の一部なのよ」

 エトは、わかっているさと答えた。

 「どうして魂の一部を残したのか聞いてもいい、エト」

 「イーンにそう宣言したから。誰かがこの場所を守らなくては、君たちの居場所がなくなってしまうだろう。帰る場所がひとつあるだけで、人は強くなれる。それに、イーンの大地を腐らすわけには、やっぱりいかないからさ」

 「どうして?イーンの都市なんて滅びてしまえばいい。あなたがいたって、終わりが先延ばしになるだけじゃない」

 「それだって良いじゃないか。僕は、少しでも長くみんなに生きていて欲しいんだ。油人たちは僕を簡単に受け入れてくれた。竜の死の秘密を探りに来た異境人の僕をだ。それが嬉しかった。人の役に立てることが嬉しかったんだ」

 「馬鹿みたいね」ホタノは素っ気なく言った。「あなたの大事なあの娘に生きていて欲しかっただけでしょう?」

 「ヴィノと、そして君たちみんなに生きていて欲しかった」

 「あの娘に、もう会えなくなるのにね。あなたの魂の片割れが、今頃彼女と楽しく過ごしているのかもしれないわよ。片やあなたは、こんな陰気な部屋でしつこい魂の相手をしている。私の知る限り、あなたの行いを褒める人はいないでしょうね。むしろあなたはいろいろな人から憎まれることになるかもしれない。そんなのって不公平じゃない?」

 「僕の魂はもう分かたれてしまった。それを今更元通りになどできないよ。それはわかっているつもりだ。何かを選ばなくてはならなかったんだ。そしてそのために何かを犠牲にしなくてはならなかった。僕は何を捧げ、何を得たんだろう?寂しくないと言ったら嘘になる。妬ましい気持ちがないわけでもない。でも、それがどうしたって言うんだ?――血は水に変わり、皆に分け与えられる。血は流されたんだ。あとは大地を維持するよう努力するほかない」

 「私、その言葉大嫌いなの」

 嘲りを含むホタノの表情に、エトは苦笑いを浮かべた。

 「モズルの木の下で、ヴィノは僕の手を取った。彼女が、僕を精一杯励ましてくれていることがよくわかった」

 「それで?」

 「僕は勇気だけを受け取って、すぐに手を離すべきだった。でも、僕がヴィノを拒絶しようとしたために、彼女の心は止めようもなく僕に流れ込んでしまった。ヴィノの心には呪いがあった。彼女はイーンの地が、変わらず続くことを望んではいなかった。いっそのことイーンが滅びてしまうことを期待していた」

 「でも、あの娘はあなたの手を取り、イーンの地を保つ手助けをしたのでしょう?」

 「それは、僕を助けようとしたに過ぎない」

 「それだけでは不満なの?」

 「いいや。不満なんかこれっぽっちもないよ」

 「あの娘の心に、あなたが見たくない物が隠されていたからと言って、私はあなたに同情するつもりがまるでないわ。人の心を覗くなんて卑しいことよ」

 「僕もそう思う」

 「贖罪のつもり?」

 「君に対してのね」

 「私の心を覗いたの?」

 「この部屋にいる限り、誰の心も伝わってしまうんだ」エトは肩をすくめた。

 ホタノの目に、エトの表情は悲しく映った。

 「忘れてしまいなさい。どんなに願っても、あの娘はもう、あなたから遠く隔たってしまったのよ」

 エトは諦めたことを示すように笑みを作った。そのように、ホタノには思えた。

 「君も、そろそろ行ったらどうだ?」エトはホタノを見送るために、彼女に近づいた。

 「外の世界で、本当にやっていけるかしら」

 「それを確かめるためにも、外に出てみなくちゃ」

 「もしかしたら、外の世界であなたに出会うかもしれないわよ?」

 「そうしたらよろしく言っておいて欲しい。どこで会うことができるだろう?もしかしたら、イーンではなく、セオの大市場やフォンリュウの北の城壁で出会うかもしれないよ」

 「あなたはぐずぐずとイーンに留まり、世界を旅する私にはちっとも出会えないかもしれないわ」

 「そうしたら君が、僕に世界の様子を知らせて欲しい。東の古代都市を巡って、いろいろな物を見聞きし、いろいろな人に出会い、そのすべてを伝えて欲しい。富のセオの姿を僕は知らない。それは裕福な人々の住む、立派な家屋の立ち並ぶ土地であるべきなんだ。霧笛のアズライには近寄らない方が良いかもしれない。アズライの魔術師たちに君の正体を見破られてしまうかもしれないから。もし、フォンリュウに行くことがあるのなら、焔の竜にお礼の言葉を伝えて欲しい。今こうして君を送り出すことができるのも、フォンリュウの力のおかげだからね」

 「竜は、他の竜の匂いを嫌うのよ。そんなこともあなたは知らないの?」

 「ああ、知らないよ。だから君が、僕の代わりに世界を巡ってくれるのだろう?」

 エトはホタノの手に自分の手を重ねた。彼女の手は少し震えていたが、恐れる気持ちはだいぶ小さくなっていた。

 「さあ、出発する時間だ。無理だと思ったら戻ってくればいい。竜の部屋はいつでも君のために開かれているんだから」

 ホタノは扉を押し開き、眩しい光の下へと踏み出していった。彼女は振り返ることも、立ち止まることもしなかった。そのことがエトは嬉しかった。

 エトは一人きりになった。

 柔らかな闇の中で目を閉ざした。

 水の流れる音が聞こえた。

 「チウダ」とエトは呟いた。

 言葉は誰の耳に届くこともなく、部屋の闇にそっと溶け込むように消えた。

 

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果ての竜の子供たち ミツ @benimakura

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