3
――あっという間にその日はやって来た。
いつもなら、別段時の流れを早いと感じる事はなかったけれど、この一ヵ月間は本当に早かった。
早く寝た方がいいとわかっていても昨日はなかなか寝付けず、ラストスパートとばかりに追い込んだここ数日の疲労もそこそこ溜まっているはずなのに、今はその疲労も心地好く、大変と思えた準備でさえも楽しかった。
前と同じ駅前広場の街頭の下、流れ行く人達を暫く眺めてから、取り出したアコギを構えて深呼吸をする。
(大丈夫大丈夫、前を向いて)
自信持って、顔を上げて。
昨日、ベランダで話した言葉が胸に蘇る。
『これは僕の経験論みたいなものだけど、多少下手でも堂々としている人の方が、案外目が行ってしまうものだよ』
『きみはよく下を向きがちな所があるけど、目の前の景色をちゃんと見なきゃもったいない』
『一番大切なのは、まず自分が楽しむ事。自分が楽しくないもので、他人の心まで動かせる訳がないからね。でも気負いすぎないようにね。リラックスリラックス』
『自信持って。大丈夫、僕が保証する』
(ふふっ。自分の事じゃないのに、やけに自信ありげだったな)
知らず身体に入っていた力が程好く抜けていた。
ついまた下を向いてしまいそうになる顔を上げて、大きく吸い込んだ息を歌に変えて吐き出した。
三曲目を歌い終わる頃。
友達同士だろう。部活帰りらしい、ジャージ姿の女の子が二人で立ち止まった。
途端に縮こまりそうになる身体を意識して和らげ、歌に意識を戻す。
誰かがいると足を止めやすいのか、一人、また一人と少しずつ輪が出来ていく。
少し離れた所からも、こちらの様子を窺っている人の姿が見えた。
(こんな
一人一人の顔が、景色がよく見える。
俯いてたらもったいないって、こういう事だったんだな。
震える指先は緊張か興奮か。
心なしか、声が遠くまで響いている感じがする。
(楽しい!気持ちいい!)
そんな風に思えたのは初めてで、自然と笑顔になっていった。
(お隣さん、来るって言ってくれたけど…)
曲を進める中で、人垣の中に目を走らせてみるが、見知った姿は見当たらない。
こちらが忙しく動き回っていたように、隣からも遅くまで連日あの音が聞こえていた。
昨日話した時も作業の途中だったようだし、今日も急な仕事が入ったと朝早くから出掛けていたから、もしかしたらまだ仕事が終わっていないのかもしれない。
(いや、今は目の前の事に集中だ)
私は別の考え事をしながら物事を進められるほど器用じゃない。せっかくの良い流れを、自ら断ち切ってしまう事もないだろう。
もやもやしそうになる気持ちを、頭を振って追いやった。
いよいよ最後の一曲となった。
途中で入れ替わりはあるものの、今や人の輪は目の前いっぱいに広がっていた。
ここまで聞いてくれた事に改めてお礼を言って、手の感触を確かめるように何度か握ったり開いたりしてから、すうっと息を吸い込んだ。
手拍子の音、向けられる笑顔、僅かに身体を揺らしながら聞いている人。全てを胸に刻み付ける想いで、一つ一つの言葉をメロディに乗せていく。
(ここが一番の見せ所…!)
間奏でのギターソロ。今までの私が苦手に思って避けてきた部分。「出来るようになったら楽しくなるものだよ」と言われて、騙された気分で練習を重ねてきた。
わかってはいたが、最初は全然上手く弾けなくて、ボロボロもいい所だった。本当に弾けるようになるのかと思っていたのに。今、とても楽しい。
順調にソロを弾き切った所で、バチィ―ンッと音がした。
(わっ、どうしよう…!)
最近毎日弾いていたからか、少しずつすり減っていたのかもしれない。大丈夫だと思って一度弦を張り替えてからそのまま使っていたものが、ここで限界を迎えてしまったようだった。
慣れないながらも残りの弦で和音を分けて、アルペジオで落ちサビを弾いていると、左側から人の合間を縫って帽子を目深に被った人が大きなケースを持って近付いてきた。
えっ…と思う暇もなく、その人はケースからアコギを取り出すと、素早くチューニングを終わらせて私の音に重ねてコードを奏で始めた。
「歌って」
耳元で、私にだけ聞こえるようにそっと囁く声は、いつものお隣さんのもので。
沸き上がる疑問が頭の中をぐるぐるしながらも、小さく頷いて続く歌を紡いでいく。
安定感のある伴奏に、自分のギターは途中から脇に置いた。
空いた両手も使って全身で歌い終えると同時、今までに感じたことのない昂揚と、拍手を浴びた。
背中にそっと手を添えられ、斜め上を見上げて目が合ったお隣さんと並んでお辞儀をする。
それぞれの道へ帰っていく人達の背中を見送りながら、何度も何度もお礼を言った。
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