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これまでは外で偶然見掛けても、ただ見るだけだったものが、駆け寄って挨拶してみたり、夜に聞こえるあの音の合間、また休憩だろう時間に歌を聞かせてもらって、時には一緒に歌ってみたり、何でもない日にも他愛もない話をしてみたり。
いざ話すようになってみると、初め物静かだと思った印象とは裏腹に、好きな事には案外饒舌な人だというのがわかった。
交わすやり取りはどれも小さなものだったけど、この距離感が居心地が良かった。
「こんばんは」
「また夜更かし?」
「それを言うならそちらこそ、ですよ」
ある日の夜、またベランダの窓辺に腰掛けてふとそんな会話をしていた。
初めはたまにだったやり取りも、ここのところ日課になりつつある。
「今日は歌わないんですか」
「元々僕のは趣味とも言えない程度の息抜きみたいなものだからね」
「全然そんな風には思えませんよ。息抜きにってレベルじゃないですもん」
「きみこそもう歌わないの?」
「こないだ一緒に歌ったばかりじゃないですか」
「そうじゃなくてさ。いつかみたいにギター持って弾き語らないのかなって」
ドクン。心臓の鼓動が大きく跳ねる。
「え…」
「きみ、前に駅前広場で歌ってた子だよね」
夕焼けの空に群青が混ざって、絵の具が滲むように夜の気配が濃くなる時間。街灯に照らされた広場の片隅。
あの人達に憧れて何度か、アコギ片手に路上ライブをしてみた事があった。
震える足と声を心の中で叱咤して、通り過ぎる人の流れに向けて歌い続けた。
気紛れに足を止めてくれる人もいたけど、大半はちらと視線を寄越すだけで振り返る事もなく歩き過ぎ、元々表に出るよりも裏方作業の方が好きだった性格もあって、人前で歌う勇気はみるみる萎んでいってしまった。
「たまたま一度聞いた事があってさ。僕は好きだと思ったよ、きみの曲も、きみの声も」
その言葉に、知らず俯いていた顔を上げる。
初めて、認めてもらえた気がした。
堅実な就職先を目指す友達には、歌をやりたいという自分の夢はどことなく恥ずかしくて話せなかった。
親は芸術事には無関心とまでは言わないけれど、歌をやりたいなんて打ち明けたら反対されるだろうというのは目に見えていたから、家の中では歌を歌う事すらなかった。
数回だけ経験した路上ライブでも、疎らな拍手はもらっても、声を掛けられた事はなかった。
「一度逃げたのに、また戻ってもいいんでしょうか…」
「もちろん。僕はそもそも逃げたとは思わないけどね。ちょっと脇道に逸れて休憩しただけ。回り道上等。大切なのは今の自分の気持ちでしょ」
大切なのは今の自分の気持ち…。
言葉を反芻する私に考える隙を与えないようにか、更に言葉を重ねてくる。
「やらない後悔よりやった後悔だと、僕は思うけど。あ、これじゃ失敗を前提に話してるみたいだ。でもきみはどう?また歌ってみたいと思う?それとももう一生関わりたくないと思う?」
やりたいかやりたくないかだけで考えるなら、そんなの最初から答えは決まっている。
「やりたいです…!また歌いたい!」
「うん、きっとそう言うと思った」
ふっと、緩やかに笑う気配がした。
先程自分が言った言葉が、数秒遅れで脳まで浸透すると、途端に恥ずかしさが込み上げてきた。
「あ、あのっ、やりたい気持ちはありますけど、今すぐどうこうとかはまだ」
「そんな事言ってたらいつまで経っても始まらないよ」
「それは、そうなんですけど…」
「大丈夫、案ずるより産むが易しって言うでしょ。案外なんとかなるものだから」
そこからの日々は目まぐるしかった。
「こういうのは先に期限を決めちゃった方がいい」と、あたふたする私にお構いなしに一ヵ月後の日にちを指定すると、お隣さんは自分もやってみたい事が出来たからと部屋に引き籠もる事が多くなった。
私も私で、仕舞い込んでいたアコースティックギターを出して綺麗にしたり、弦を張り替えたり、昔書いた曲を思い出しながら歌やギターの練習をしたりと、久しぶりに充実していると感じられる日々を過ごしていた。
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