きみの声、ぼくの音

柚城佳歩

きみの声、ぼくの音 1

午前0時――。


この時間になると時々、隣の部屋から壁越しに音が聞こえてくる。

例えるとするなら、ダダダダダとか、ドーッとか、タッタッタッて感じ。


始めこそ何事かと思ったりもしたけれど、眠りを妨げる程大きな音じゃないし、毎日聞こえるわけでもない。

それに何より私自身、少しくらいの物音なら気にせず眠れる事もあって、今じゃすっかり生活の一部となっている。


隣人とは生活リズムが違うのか、取り立てて接点があるわけではなく、外を歩いている時にコンビニの袋を提げた後ろ姿をたまに見掛けたりするくらい。


一番長く話したのは、一人暮らしを決めて実家から引っ越してきた日。

緊張しながら押した呼鈴で出てきたのは、目元が隠れるくらいの長い前髪と猫背気味の長身が印象的な、物静かな雰囲気の男の人で、年下であろう私にも丁寧に挨拶してくれた。




ダダダダダダ―。


(あ、今日もやってる)


そろそろ寝ようかと電気を消してベッドに潜り込んだと同じくらいに、またあの音が聞こえてきた。

聞くともなしに聞きながら目を閉じていると、暫くして音が止んで、ベランダの窓を開ける音がする。


(休憩かな?)


そんな風に思っていたら、風に乗って覚えのあるメロディが聞こえてきた。

これは確か何年か前に流行った曲で、カラオケに行くといつも誰かが歌っていたり、履歴にも残っていたのを覚えている。


それを紡いでいるのは、夜の凜とした空気を包み込むような歌声。すぐに隣人の姿が思い浮かんだが、この伸びやかな声とはイメージが重ならない。

つい気になってしまって、足音を忍ばせながら静かに、ゆっくりと、ベランダへと近付いていった。

少しずつ大きくなる歌声に呼応するように、心臓の鼓動も高まっていく。


音を立てないように気を付けながら窓を開けると、夜の澄んだ空気を震わせて、心地好い音が耳に直接流れ込んできた。


ちょうど曲が終わり、すぐにまた違うメロディが紡がれる。今度は、最近新しいフレーバーが出たお菓子のCMソング。

不思議と耳に残るその曲は、今日も街を歩いている時に小さい子が真似して歌っている姿を見たばかりだ。


(なんだか覚えちゃうんだよね、この曲)


妙に馴染んだその曲に、頭の中でCMに出てくるどこかとぼけて愛嬌のあるキャラクターを思い出して、壁に凭れながらふっと笑みを溢す。

その曲も終わり、次に聞こえてきたメロディにはっとして、反射的にそちらへ顔を向けた。


(この曲…!)


間違えるはずがない。私が歌をやりたいと本気で思うキッカケをくれた人達の曲だった。


誰もが知っているような有名なバンドじゃない。

小さなライブハウスのステージに立って歌っていた人達。

そんな人達の曲を、まさかこんな身近な所で聞く事があるとは想像もしていなかった。


鼓動が速まる。沸き上がる想いは、知らず声となって溢れ出ていたらしい。

気付けば流れるメロディに自分の声を重ねていた。


「…えっ」


隣からの歌声がはたと止み、戸惑うような声も聞こえてきた。


(わ、やばい…!)


夢見心地だったところから、一気に現実に引き戻される。姿が見えない事も忘れて、隔て板越しに頭を下げた。


「あ、あのっ、すみません!盗み聞きするつもりはなかったんですけど、今の、好きなバンドの曲だったのでつい」

「…知ってるの?」


最悪、無視される事も想定していたが、返ってきた声の調子からは怒ったりしている様子は感じられない。

少し戸惑いながらも、ぽつぽつと言葉を返す。


「…はい。何年か前に友達に誘われて行ったライブで初めてその人達を見て、一耳惚れしました」

「一“耳”惚れか…。うん、なんだかちょっとわかる気がする」

「残念ながらもう解散してしまいましたが、今でもずっと好きで、私の憧れなんです」


来る日も来る日も学校と塾と家の往復。課題はいつだって山積みで、勉強漬けの毎日。

受験生なら大体似たようなものなのかもしれないけれど、何をやっても成績が伸び悩み、頑張り方も、自分が本当にやりたい事すらもわからなくなっていた時期があった。


そんな私を見兼ねたのだろう。ある時急に「放課後、ライブ観に行こう」とそれまで全く縁のなかった場所へと友達が連れ出したのだ。


扉の外にまで漏れ出す程の大きな音と、同じ方向を見つめる人と熱気。

押し潰されそうになりながら、顔を上げた先に見えたライトに照らされ輝くステージ。

何もない所から音が生み出され、重なって、一つの大きな波となる。

決して大袈裟じゃなく、世界が変わった気がした。


その日は対バン形式のライブで、友達は別のバンド目当てで誘ってくれたみたいだけど、私は一番最初に歌った人達にすっかり惹き付けられていた。

それ以来、歌やバンドに興味を持って、自分でも調べて一人でもライブを観に行くようになった。


いつだってヴォーカルの人は心底楽しそうに歌っていて、トークでお客さんを沸かせるのも上手く、ちょっと話がずれるとすかさずバンドメンバーが修正してフォローする。


ギターの人はほとんど喋らなかったけど、真っ直ぐなのに包み込むような響きを持った声で歌うコーラスはとても心地好かった。


自主製作したというCDではどれもヴォーカルの人が自分でコーラスも入れていたけれど、ライブの時だけはギターの人がハモっていて、それも楽しみの一つだった。


いつしか、そんな姿に憧れる気持ちが生まれて、自分もそうありたいと思うようになった。


「憧れ、って事はきみも歌を?」

「え、と…」


その続きを躊躇う。だってこれは、まだ誰にも言った事がない私の夢。

だけど。顔が見えないからだろうか。それともあまり知らない人だからなのか。

今ならちゃんと声に出して言える気がした。


「そう、なれたらいいなって思います。ほんとにただの憧れ、夢のまた夢なんですけど」

「そっか」


“頑張れ”とも、“止めとけ”とも言われなかった。

ただ聞いてくれる。それがなんだか不思議と嬉しかった。


「あの」

「はい」

「また聞かせてくれますか、あなたの歌を」



この夜を境に、お隣さんとの交流が始まった。




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