第5話『かれーなる・ろん』

 俺は家に帰って、小学校の頃に書いた「ぼくのおねえちゃんはやさしいおねえちゃんです」みたいな作文を今すぐ燃やしたい衝動に駆られ、朱子が小学校三年生の夏休み、うっかりテレビのチャンネルを変えたら、ちょうどホラー映画で幽霊が人間を襲っているところに出くわしたせいで、悲鳴とおしっこ両方漏れ出しちゃった話を大声で喚き散らしたくなった。


 だが、そんな事をすれば、恋姉はブチギレ確定だし(その作文は恋姉の部屋にある)朱子は恥ずかしさのあまり泣き出すので、クラスの女子からは吊し上げを食らうだろう。


 俺は道着も着てない人間を殴るような趣味はないので、そうなったら無抵抗でボコられるガンジーコースことも確定する。


「ふぅ……ごちそうさま」

「「ごちそうさまでしたぁー」」


 俺たち三人は手を合わせて、弁当箱をしまった。

 朝、コンビニで買った生ぬるいペットボトルで食後の一服をキメて、放課後なにしよっかなぁー、とぼんやり考えていた。


 男子高校生は放課後が一日のクライマックスだ。学校? 授業は寝る時間だぞ。勉強なんかしやがって。俺たち高校生に勉強をしている暇などない。


 青春は勉強に費やすには短いんだ。


「それじゃあ、姉さんはクラスに戻るわ」


 言いながら、恋姉は立ち上がると、二本指を立てて顔の横でシュッと手首をスナップさせる。なんだかキザ男みたいな仕草である。


「あれ、もう帰るの?」

「ええ。姉さんにも、姉さんのお付き合いがあるのよ」


 なんで俺がダダをこねて引き止めてるみたいになってんだ。別にいいわ、帰っても。


「今度は、愛作が姉さんの教室に来るといいわ。私ばっかりこっちに来てるの、ずるいし」

『クラスのみんなが、愛作を見たがってるのよね。いろいろ話しちゃったからでしょうけど』


 なんかすごい行きたくない言葉を姉さんが考えている。一体何を話したんだ。そもそも、上級生のクラスに行けるほど、俺のメンタルは強くないぞ。

 特に恋姉の口から漏れた俺、というのが怖い。理想をごっちゃにしてないだろうな。


 そんな心配をしていたが、問い詰める前に姉さんが帰ってしまったので、事の真相を聞けなかった。いや、でも聞かない方がいいのかもしれん。聞いてしまったら事実になっちゃうからね。


『なんだか、いつも通りだったね、恋さん……』

「あぁ。別に何かあったわけじゃないからな」


 今まで隠れていたものが表面化していただけである。俺の周りでは、数少ないまともな人間だと思っていただけに、なかなかショックが隠せない。

 隠していたもんを無理に引っ張り出すことなんて、しなくていいよな……。


『でも、よく考えたら、サクちゃんが乗り気にならない限り、大丈夫なんじゃない……?』


「俺からしたら、そういう目で見られてんのがもうイヤ」


『そういうものなの?』


「当たり前だ。お前だって、親父からはイヤだろう」


「あー……」


 思わず声が出るほどイヤか。


 まあ、そりゃあそうだろう。俺は今でも、姉さんがただ痛みがほしいだけなんだ、という説を信じている。かなり確率は低いが、確率が低いくらいで望みを捨てるなら、人間はギャンブルなんてやらない。


「俺はな、恋姉が変態だった事実が一番怖いんだよ」


 周りに聞こえないよう、小声で言うと、朱子が首を傾げた。


『……どういうこと?』


「いいか、俺はな、俺の周りにはまともな人間が少ないと思ってる」


『私は……?』


 お前、ダメにした俺の学ラン見てもそんなこと言えんのか?

 言わなくてもわかるだろうということで、無視して話を続けた。


「それが数少ないまともな人間だと思ってた恋姉があれだよ。まともな面したやつでも、どんなもん心に抱えてるかわかったもんじゃねえってことだな。例えば、めっちゃ仲良くしてる俺が、お前のことめっちゃ嫌いってなったら、人間不信になるだろ」


 めっちゃ勢いよく朱子が頷く。

 壊れたサルのおもちゃみたいだな。


「心の中を知らないでいられるって、幸せな事なんだって……」


『サクちゃん、なんか悟ったね。宗教にでも入った?』


「悟りを宗教入った、でざっくり済ますな」


 なんて荒い理解なんだ。理系だからってスピリチュアルな事を疎かにするな。俺はツキとか運気とか流れだけは信じてるんだから。

 っていうか、ほぼお前のせいなんだぞ。俺が悟ったのも。


「もうマジで返すよココログラス……。俺は人間の闇を見て、正気でいられる自信がない」


『だッ、ダメだよ! なんの為にココログラス作ったと思ってるの!? サクちゃんとのコミュニケーションを円滑にし、心を繋げるためなのに!』


「その結果心に傷を負ってんだよなぁ!」


『さ、サクちゃんなら大丈夫だよ。逆境をバネにできる男だからッ』


「逆境を与えた本人が言うな! ムカつくから!」


『今の所、好かれてるんでしょ? なら……』


「好きだからって何をしてもいいわけじゃねえ!」


『されてないじゃん……』


 まったくだ。どちらかと言えば、したのは俺である。だが、正論は俺を傷つける。だからよくない。

 朱子の頬を両手で軽くつねり、モチでもこねるみたいにグニグニとこねた。


『い、痛いよサクちゃん』


「正論なんて言うからだ。お前、いつからそんなひどいことするようになった? 傷ついてる人に正論を言うのは、傷口にデスソース塗るようなもんだぞ」


『そこまでひどいことを言った覚えはないんだけど……。正論は、正しいから正論なんだよ?』


「うるせえ! デスソース食えるようになってから言え! ココイチの二辛も食えねえやつが、正論言ってんじゃねえよ!」


『どういう暴論!?』


 ロンロンうるせえんだよ! 麻雀やってんじゃねえんだぞ!

 イライラしたせいで、なんだか無性に体を動かしたくなったが、外で走ったりするには中途半端な時間である。くっそ、ティーチャー来ちゃうよ。どうせ寝てるんだから、さぼってもいいのだが、教室にいると出席扱いにしてもらえるので、いなくてはならない。


『嫌なことがあるとすぐヤケになるの、サクちゃんの悪いクセだよ……』


 なんだか、散歩に行きてえとダダをこねたくせに、外に一歩出るや否や、寒いからって嫌がりだしたバカな犬を見るような目を向けられていた。なんて失礼な目だ。男だったら関節キメてるぞ。


『まあ、サクちゃんがイヤなのはわかるけど……。でも、結局これって、大した問題じゃないんだよ』


「どういうこと?」


『恋さんの衝動って、受け身なことじゃない? だから、サクちゃんに必要なのは、知ってしまったことを、恋さんにバレないようにすることと、衝動を抑える方向で頑張ることなんだよ』


「まあ、そりゃあそうだな」


『だから、ココログラスも必要なんだよ』


「あれ、急にわかんなくなっちゃったぞ」


 なんで必要なんだ。

 返すって言ってるじゃん、こんな怖いもん。


『サクちゃんも言ってたでしょ? 地雷原だって。一度知っちゃったら、ナビなしじゃ、きっと歩けないよ』


 確かに一理ある気がする……。


『もし、もしもだよ? 内心で、恋さんが、サクちゃんに殴ってもらう計画を進めていたとして』


 なんだかすごい言葉だ。殴ってもらう計画ってなんだよ。


『その計画が成功して、恋さんが欲望を満たしたとして。絶対に一度じゃすまないよ。成功体験っていうのは、麻薬みたいなものなんだから。そしたらどんどんエスカレートしていって、とんでもないことになってしまうよ?』


「それを阻止する為に、これがいるって?」


 かけていたココログラスをくいっと押し上げる。


『うん。人間の脳みそなんて、サルと大差ないんだから、脳内麻薬には逆らえないんだよ。成功を覚えさせないために、必要なの』


 やめろその、唐突にサイコパス天才キャラみたいなセリフ運びするの。

 とはいえ、朱子の言っていることにもかなり説得力があった。気持ちいいことはそうそうやめられるもんじゃないよな。


 やめるのが難しいのなら、最初からやらせないのが一番いい。


 つまり、事前に阻止すること。そのためにはココログラスが必要不可欠だ。

 俺はいつもこうして、朱子に丸め込まれているのだが、どうも納得しちゃうとはねのけるのが難しいんだよな……。


「まぁ、一理あるし……。わかった、まだしばらく貸しといてくれ」


 俺がそう言うと、朱子が安心したように微笑み、そして、


『いつもちょろいなぁ、サクちゃんは』


 という言葉が出てきた。


「お前、俺を実験に巻き込もうとしてるとき、いつもそんなこと思ってるな?」


 にこやかに、逃さないように朱子の肩を掴んで、さてどうしてやろうかと悩むと、朱子は首を振って


『初めて! 初めて! いつも感謝してる!』


 というおべんちゃらが飛んできた。

 てめーふざけんなよこの野郎。今日の放課後は、朱子といっしょにココイチに行こう。一〇辛食わせてやる。

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