第3話『あこがれ、あほたれ』
人の心というのは、パンドラの箱だ。
開けたっていいことがなにもない。上っ面の友情とか、外面だけはいいとか、なんだか取り繕うことが悪いこと、みたいに言われている時があるけれど、取り繕って何が悪い。むしろ、取り繕えるだけの常識があるということなのだから、それは至極まっとうな人間ということだ。
だから、翌日登校してすぐ、俺は先に来て、教室の隅で座って本を読んでいた朱子に、ココログラスを差し出した。
「おいバカ子。ココログラス、返すわ」
「えっ、あ、うん……バカ子……?」
俺からココログラスを受け取った朱子は、なんだか狼狽えているようだった。
「って」
しかし、朱子は首を勢いよく横に振り、なぜかココログラスを押し返してきた。
「いらねえよバカ子。なんだこれ?地雷元を歩くんなら、地雷の位置なんて知らない方がマジだったっての」
知らなかったら、俺は今まで通り恋姉と接することができたのに。
心の中ってもう、人間の奥の奥だからね。パンドラの箱と違って、これ以上希望が残って無さそうなのが……。
俺はいろいろ言いたいことがあったのだが、朱子は自分の眼鏡を何度もしつこく押し上げていた。
ココログラス、しろってか……。
「俺もうやだよぉ……。この期に及んで、お前が俺の事を変な目で見てたら、耐えられない……」
ほんと、朱子だけはそんなことを考えない純真なままでいてほしい。いや、考えてもいいんだけど、俺にバレないようにして?
だが、俺の思いなんてわかってくれない朱子は「……してくれないと、口効けない」とナメたことを言い出したので、仕方なくココログラスをかけた。
お前がココログラスして俺を見ろ、と言いたくなった。っていうか、口効けないってなんだよ。
『昨日、何かあったの?おじさんに勝てた?』
「勝ててねえ。つーか、よく考えたら、文字読みながらあんなバケモンと戦おうなんて考えてたのがバカだった」
『……あ、言われてみたらそうだね。じゃあ、どうしたの?』
さすがにそれを口で出すのはイヤだった。なので、もう一度ココログラスを朱子に渡し、
「それで俺の心の中を読め」
と言って、朱子にココログラスをかけてもらった。朱子が心の中を読んでから、俺は、昨日の事を思い出す。
すると、なんだか赤い顔でココログラスを外し、俺に返し、机に突っ伏してしまった。
やはり朱子には刺激が強かったようだな。
『さ、サクちゃん……。お風呂上がり、いつも上半身裸なの……?』
「今そこ関係ねえだろ!?」
『大事なことだよ!!』
ガバッと勢いよく頭を起こし、俺を見つめる朱子。大事じゃねえよ。文字ピンクだしよぉ。エッチなこと考えてんじゃねえだろうな。
「いいだろ、あちぃんだから……」
『わ、私もお風呂上がりは裸だよ!』
「知らねえよバカ子。いや、知ってるけども」
朱子って基本的に暑さに弱いくせに、何故か風呂の好みだけは江戸っ子みたいに熱いのが好きなので、風呂上がりは全裸でいることがほとんどだ。
まあ、幼少期の記憶だけど。
当たり前だ。この年齢で同い年の女子とそんなことするか。したら責任取らなきゃ。
『で、でも、恋さんがまさか、そんなこと考えてたなんてね』
言ってから(考えただけだけど)恥ずかしくなったのは、朱子は顔を真っ赤にしたまま、誤魔化すような微笑みを浮かべた。
『確かに、昔からサクちゃんと組み手するとき、やたら嬉しそうだったし、サクちゃんの拳が当たった場所を愛しそうに撫でてたけど』
確定じゃん。言ってよ。いや、やっぱ言わなくて正解だったわ。
「なあ、朱子。俺、高校出たら一人暮らししようかな……」
『恋さん、悲しむと思うよ。というか、殴られにサクちゃんの家に行きそう』
やめてよそんな怖いこと言うの。まだ強盗の方がマシだよ。
「でもだからって、俺は今後、恋姉と普通に接する自信がない。自信がない、という自信がある」
『グラグラだね』
そうだね。ほんと、優しくて綺麗な、自慢の姉だったんだけどな。いや、もしかしたら、そういう周囲のプレッシャーが、恋姉にストレスを与えていたのかもしれない。
その結果あの性癖となると、ちょっと目も当てられない。海の見える病院で心を癒してもらう必要がある。
「ちょっと、鷹ノ目」
「あん?」
振り返ると、そこにはクラスメイトの御堂霞が立っていた。
ハーフアップの茶髪というセミロング、だらしなく着こなした制服と、アクセサリー。かなり今どきって感じの女の子。
強気につり上がった目と、色つきのいい唇がなんとも色っぽい女の子。
「あんまり、お姉さんの話題はクラスでしない方がいいよ。周囲の男子、聞き耳立ててる」
「えっ」
言われて周囲を見ると、確かに、男子達が露骨に耳をこっちに向けていた。
「なんだぁてめえら!恋姉はお前らになんかやらんぞ‼」
そういうと、男子達から「なんだよこのシスコン!」「格闘技やってっからって、調子乗んなよコラァ!」という言葉と、文字が飛んできた。
お前ら、心と言葉が一致しすぎだ。
「さんきゅー御堂。止めてくれて」
「あぁ、いいのいいの」
『やった。鷹ノ目に感謝された』
おお、なんか心から感謝の言葉を喜んでいるみたいだな。なんだかそう言われると、感謝した甲斐があるってなもんだ。
周囲に、好きという文字さえ舞っていなければ。
『はぁ……鷹ノ目って、いっつも五眼さんと一緒にいるなぁ……二人きりで話す機会、なんとか作れないかな……』
オイオイオイオイ。
冗談だって言ってくれ。こいつもか?俺はいつ御堂に好かれるようなことしたよ。
「ひぃぃ……」
思わず、俺の口からは恐怖でひきつった息が漏れる。
さすが幼馴染だけあり、俺の様子が変だとわかったのか、朱子が背後から服の袖を引っ張って、内心で『どうしたのサクちゃん』と尋ねてきた。
俺は朱子の耳元に唇を寄せて、小さな声で
「こいつの周りにも好きって文字舞ってんだけど。なんなの? これ壊れてない?」
『壊れてないよッ。私の発明がダメだって言うの?』
なぜか自信満々な表情をしている朱子。
いや、ダメだったとき何度もあったからね。直近だけでもステルスドローンという悲惨な事件があったことを忘れるな。
「……あのね、人をほったらかして、こそこそ内緒話?」
『ほんとに仲いいなぁ……。なんとかして、五眼さん出し抜けないかな……』
不機嫌そうに、腰に手を添えて唇を尖らせる御堂。
それは俺が取りたい態度だよ。もう恋姉だけで手一杯なのに、なんでお前まで。
『鷹ノ目は、私の白馬の王子様なのに……』
と、赤い文字が舞っている。おいおいおいおいおい、朱子に憎しみ抱いてないか!?
強くない? 想い、強くない!?
っていうか、誰が白馬の王子様だ。それ俺じゃない人だよ。別の鷹ノ目だよ。
「……あれ? 鷹ノ目、メガネなんてしてたっけ」
『似合ってるといえば、似合ってるわね。インテリヤンキーって感じ』
みんなそれ言うな。俺は遅刻こそするが、他の悪いことをしたことはないぞ。
「みんなが目つき云々とか言うからだよ。俺の心だって傷つくんだぞ」
「そんな言った覚えもないけど……」
『あの目で優しく見つめてほしいんだけどな。メガネがあると、あの目つきがわかりにくくなっちゃう』
ちょっとやめて。今俺にそういう言葉向けないで。セクハラだよセクハラ。
「あー、悪い御堂。ちょっと朱子と、まだ話しあるからさ」
だから帰って、席に戻って他の女子とトークしてて。
という意味を込めて、軽く頭を下げる。
「あ、うん……わかった」
『やっぱり、私より五眼さん優先なんだ……』
と、青い文字が舞って、御堂は友人達の輪に戻っていった。
俺は一安心して、朱子に向き直る。
「どうしよ朱子……」
なぜか朱子は怒ったような表情をしていて、彼女の周囲に言葉が出てきた。
『っていうか、サクちゃん』
「あんだよ」
『バカ子ってなに』
そう、赤い言葉が出てきた。怒ってらっしゃる。
っていうかおせえよ。どんだけ後手に回ってんだ。
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