第2話『もうもくぼうりょく』

 簡単に言うと、ココログラス、俺には一切使い物にならなかった。


 身長一八〇センチ、体重一〇三キロ。柔道の百キロ超級選手かよ、と思うような体格を持っている相手に、よそ見して文字読みながら戦えますか? という話である。無理に決まってる。


 だが、心を読めれば勝てますか? と言われてしまうと、なんだかできるような気がしてしまうから、言葉というのは魔法だ。親父が右の正拳突きを水月みぞおちに放つところまではココログラスで読めたのだが、それを読めても対処できなくては何の意味もなかった。


 いつもよりもあっさりと倒され、親父に「我に秘策あり」とイキり倒した末のそれでは、さすがに親父も俺が何をしたかったのか、よくわかっていないようだった。


「……何がしたかったんだお前?」


 道場の床で身悶える俺を、冷ややかな視線で見下す親父。何食ったらこんなに山みたいな体になるんだ、というほどでかい。短く揃えられた短髪に無精髭で、合気道の袴みたいな格好をしている。


 俺も、道着を着て親父と向かい合っていたのだが、一撃で倒されて、今ではまな板の上で最後の悪あがきをする鯛みたいにビチビチ床を跳ねていた。


 なんとか呼吸を落ち着かせて立ち上がり、俺は舌打ちをして、親父に不意打ちしようかなと考えたが、どうせカウンターが返ってくるだけで、俺に得が一切ない。


「やかましいッ。くそ、いけると思ったのに……」


 人間、特別な力を手に入れると、目が曇ってしまうものだ。

 手に入れたの、メガネなのに……。


「なんかいつもよりダメだったぞお前。ダメすぎてムカついたわ」

「ぐぅ……」


 俺は思わず、反論を飲み込んでしまった。いつもの俺なら、少なくともいきなり水月突きなんて急所攻撃、食らうわけがない。ココログラスを意識しすぎてしまった。


「何をしようとしたかは知らんが、新しい事をするなら練習しろバカ。バカはバカなりに考えたのかもしれないが、バカは浅知恵しか出せないからバカなんだよバカ」

「バカって言ったほうがバカだぞ親父。俺の六倍バカじゃん」

「いいや、今ので三倍にまで割引された」


 バカって割引制度じゃねえだろ。

 やっぱバカだよ親父。ガキの頃から武術ばっかやってっからそういう頭になるんだ。



 と、これが俺と親父の日常であり、結構な頻度で殴り合っている。俺は武術家になるくらいなら、沖縄にでも移住してスキューバダイビングスクールでも経営したいのだが、それはそれとして親父越えは成したい。これは男に生まれたからには、義務である。


 負けた罰として、道場の雑巾がけを済ませ、俺は自室に戻った。なんというか、ウチは小金持ちらしく、家が広い。いわゆる、武家屋敷という感じの平屋なのだ。四角く塀で囲まれて、隅に道場。中央にやたら広い自宅があり、離れや蔵まである。


 ――で、俺は何故か離れに住んでいる。


 なんでだと思う? 一人暮らしっぽくてかっこいいからだよ! あそこには風呂もトイレもあるし、俺が母さんに頼んで引いてもらったネット回線もあるので、暮らすには困らない。


 唯一困ると言えば、ごはんをいちいち本宅で取らなくてはならないので(一応保存のできる物なら俺の部屋でも食えるが)、日に三回は確定で本宅に行かなくてはならない。それが非常に面倒くさい。


 かつての俺ってほんとバカ。なにが一人暮らしっぽいだよ。

 だが、俺はマジで一人暮らしをする気はないので、日に三回(平日は二回)の飯と、家族から呼ばれたときは行くようにしている。


 ――で、最後に一つ。俺には、姉がいる。


 なんでいきなりこんなことをい言うのかというと、俺は今、その姉に困らされているからである。


「……どうしたの、愛作。そんなにバカっぽい面をぶらさげて」


 と、風呂上がりにばったり家の廊下で出くわした恋姉が、そう言ってジッと俺を感情の無い目で見つめていた。


 恋姉れんねえ。こと、鷹ノ目恋たかのめれんは、俺の一個上であり、いつも眠たげなタレ目をしている、感情を持ってるのか疑問に思うほど表情が変わらない。長年の鍛錬で磨かれたスレンダーな体はモデルのようで、実際スカウトもされているのだが(目の前で見たこともある)、恋姉が首を縦に振ったことはない。


 まあ、両親が許してないんだけど。


 朱子と違い、手入れを欠かしていないのか、つややかな黒髪を腰まで伸ばしており、今は薄ピンクのパジャマを着ている。


 ……周囲に『好き』という文字を、土星の輪みたいに引き連れながら。


 おっかしいな。これ、朱子を見るに、俺のことが好きな人が発してる文字なんだよね?


 あっ、そうかぁ。家族的な意味だ。それしかねえ。当たり前だ。漫画の読みすぎだよ俺。


「い、いやぁ、別に。なんでもないですぅ……」


 ちょっと焦ったから、言葉がどもってしまったが、普通だ。俺だって恋姉の事は好きだから、恋姉がココログラスをかけて俺見ても、きっと好きという言葉が周囲を舞っているはずなんだ。


「なんでもないって顔には見えないけど。というか、愛作? いつも言ってるでしょ、お風呂上がりはちゃんと服を着なさいって」


 俺はいま、灰色のスウェットを穿いて、上半身裸でいる。だって暑かったんだもん。家に家族しかいないんだからいいだろ、と思って……。しかし、恋姉は内心でそう思っていないらしい。


『まったく。愛作ったら、また筋肉がついたのね……。あれで無理矢理殴り倒されたりとかされたら、私どうなっちゃうのかしら……。服を脱がれると、さすがに興奮が抑えられないわ……』


 と、なんだかピンクな文字が恋姉の周りを舞っていたので、俺は朱子にスマホで『ココログラスの文字に色ついてんの、あれなに?』とメッセージを飛ばした。


「こら、愛作。姉さんが怒っている時に、スマホをいじらない」


 そう言っているが、恋姉の周囲には「愛作の、腕の筋肉……育ったわね。腕を軽く握ったときに出る、あの筋……。思いっきりぶん殴ってほしい……」と出ていたので、俺の血の気が完全に引いていた。そんなことをしたら、俺が親父に殺される。


「あはは、ごめん恋姉さん」


 俺の声が震えてないか心配していたら、スマホが震えたので、しまう前にチラリと見た。


 そこには「文字の色は、その言葉をどういう感情で言っているかがわかるんだけど、まあ、だいたいイメージ通りだよ。ピンクは恋愛。青系は悲しみ、赤は怒りで、黒は疑問」と書いてあった。


 なるほどぉ……なるほどなぁ。さっき、恋姉の周囲に出てた文字、恋愛色ピンクだったよなぁ……。


 ふぅ、とため息を吐いて、俺はかけていたココログラスを外し、もう一度握りつぶそうとしてみた。が、ダメだった。強度にこだわる前に、もっと見るべき部分があったと思うんだ。


「あはは、そうだネ。気をつけるヨ。恋姉も、女性だものネ」


「そうよ、まったく。日本男子たるもの、ちゃんと慎みを持たなきゃ」

『そうしないと、いつか私も、本気で愛作に叩きのめされて、屈服したいという思いを挑発されているような気がするし……』


 助けてぇーッ!!


 いや、俺がぶん殴らない限り、なんともならないのだが、それでもなんだか、とっても助けてほしい。


 俺か!? 上半身ぽんぽんすーで家の廊下歩いてた俺が悪いの!?


「そういえば、愛作?」


「なっ、なに恋姉」


「今日も、お父さんに負けたそうね。どう? 久々に、私と組み手でも」

『組み手なら、合法的に殴ってもらえる……』


 助けてぇーッ!!


 そうだよ! 俺、恋姉を組み手で殴ったことくらいあるよ!! その度に、恋姉はこういうことを思ってきたのか!? っていうか、もしかして俺というか、この家庭環境が姉さんを歪ませたのでは。


 なんだか、幼い頃からしていた日常的な好意が、とってもいやらしいことだと知ったように、嫌な気分になった。呪いかよ。でも言われて見れば、組み手ってなんだかいやらしい響きな気もする。


 サックスが上手い彼、って書かれると、一瞬見間違えてしまう程度には。


「い、いいよ。恋姉の顔を傷つけるなんてこと、できないから」


「あら、なんだか紳士的になったのね、愛作も」

『もっと野性的でもいいのに……』


 女に殴りかかるのは野性的とは言わない。野蛮人という。


「そうです。紳士です。だから、服を着ます」


 と、なんだかエッチな目を向けられていた筋肉を隠すために、自然な流れで手に持っていたタンクトップを着た。


 って、タンクトップじゃん! 隠れないよ筋肉! 防御性能が圧倒的に足りてない。


『……タンクトップ越しに膨れてる腹筋って、なんだかえっちね』


「恋姉。俺、体鍛えるのやめようと思うんだ」


「ダメよ。男の子なんだから、鍛えなさい」

『世界最強の拳を放てるようになるまで』


 あんた、その拳受けようってのか。


 ……やっべえー。姉が、実の弟にガチの暴力を振るわれたいと思っている変態だなんて、知りたくなかった。っていうか、それでどうやって興奮するの?


 おれ、こどもだからわかんないよ。


「そういえば、愛作、メガネかけはじめたのね」


「ん、ああ……はい……」


 いきなりまともな事を言われて、俺はちょっとびびった。恋姉の頭の中がバイオレンスでフィーバーしているという印象が、今の数分で刻まれてしまったのだ。


「似合ってるわね。目つきの鋭さが緩和されてるっていうか」

『なんか、インテリヤンキーって感じ』


 褒めてんのそれ? まあ、頭良さそうインテリって言われてるんだから、褒められてんだろう。


「そ、そう。目つきをね、ちょっとなんとかしたくてね」


 俺、別にそこまで目つき鋭くないと思うんだけどな。親父なんてもっと鋭いぞ。尖すぎて細いんだから。日本刀かよ。


「じゃ、俺は部屋戻るから……」

「え、ちょっと」


 俺は振り返らないようにして、そそくさと部屋に戻った。振り返らなければ、心を読む事がないからだ。


 離れに引っ越してよかった……!


 過去の俺、ナイス。やっぱり俺って、かしこいじゃん。

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