第三章
3-1
ひやりと足元が冷えたのを感じて目を開けた。
室内は暗く、窓の影がつるりと室内に落ち込んでいた。
俺の隣で人の動く気配がする。
寝たふりをしたまま、エマの動きを伺う。またあの日のように泣き出したら、どうしようかと考えていた。
エマが自分の荷物の中から丸い水晶玉を取り出す。あれも魔道具らしく、同じものを持っている遠くの人としゃべることができるものだとエマが教えてくれた。水晶玉が割れなければ、その水晶玉がどこにあるのかまでわかるらしい。
魔法とは、つくづく便利なものだと思っていた。
エマの手の中にある水晶玉は淡く光っている。薄い明りを受けた彼女の瞳が暗闇の中できらりと瞬いていた。
薄青く輝くそれに彼女が手を当てると、口元が嬉しそうに緩む。
「先生!」
と嬉しそうに囁いて、バスルームへと移動してしまう。
水晶の中に白い髪の毛の男が映っているのが見えた。水晶玉の中で紫水晶色の瞳が 強い光を持って俺のことを見ていた気がした。
カタン、とバスルームの扉が閉まった音を確認すると、布団から静かに出て扉に近寄る。
バスルームにまた耳をそばだてる。いつかの夜と一緒だと思っていた。バスルームへの扉は完全に閉まっていない。それほど急いでいたということだろうか。
「先生、お久しぶりです。どうなさったんですか?」
丁寧な口調だが、どこか雰囲気は砕けていて、水晶に映っていた男との関係性を勘ぐってしまう。
「ああ、いえ。最近調子がいいんですよ。やっぱり、魔力を使わないからですかね?」
「先生」と呼ばれている相手の声は聞こえない。ただ、エマの弾んだ声が楽し気に近況を相手に伝えていく。
不思議そうなその声音が引っかかる。エマは連日の魔物の討伐でだいぶ魔法を使っているようにも思うからだ。何度か使った時に、エマが魔力が枯渇した時の対処法や症状なんかを教えてくれたが、ニコには無縁な話とも笑って言っていた。
彼女が言うような手足の冷たさや、突然の脱力感、思考力の低下は確かに未だに感じたことがなかった。
「はい。まぁ……首領が?」
エマの驚いたような声に思考が引き戻される。
「じゃあ、昨日連絡が来なかったのはそれのせいで?」
そういえば、数日前に「三日後の八時に」と話していたはずだ。
「ちょっと心配してたんですよ。よかった」
笑みを含んだその一言に心が酷くざわつく。
「いえ、ありがとうございます。」
エマが心を砕く相手が俺以外にもいるというのが許せないような気持ちになった。
「ああ、わかりました。それじゃあ、私たちがそちらに伺います。いいえ、いいんです。旅費がたまったらすぐにでも」
何かしらの話がエマと「先生」の間でまとまったらしく、しばらくの間は彼女が「先生」に相槌をうったり、小さな頷きを返していたが、ふとそれが途切れて、
「先生の所に戻ってもう一度勉強し直そうかしら」
なんて言葉が聞こえてきて、驚きで顔を上げた。
「いえ、少しだけ本気ですよ」
くすくすと笑うエマの声が聞こえる。
笑う彼女のことを観たいと思う反面、『先生の所に戻って』という言葉が嫌に引っかかる。その時、自分は彼女と一緒にいるのだろうかと嫌な不安を覚えていた。
「ああ、はい。魔族ですよ。そうですね、それも先生にお願いできるなら助かります。はい、基礎は私が教えておきますので。やっぱり、私が教えたんじゃ魔女にはなり切れませんから」
エマのくぐもった自嘲が耳にこびりついた。
「中途半端な方がかわいそうですよ」
その一言は、まるでエマ自身に向けられているようにも感じる。彼女自身が自分に言い聞かせていた。
「適材適所でしょ?」
俺にはエマしかいないのに。と恨みがましく思っても、今は声を出せないでいた。
「私なんか、全然ですよ。頭でっかちなばかりで」
俺はここ数日で自分の名前が書けるようになった。数も少し数えられるようになったのだ。それを頭でっかちだとは思わない。
「覚えはとってもいいですよ。はい。ただ、今まで魔力を使ったことないみたいだからちょっと、魔力の調節は苦手だけど……」
扉越しに語られる自分の話を固唾をのんで聞く。心臓がどきどきとうるさかった。
「私も苦手でしたっけ? もう覚えてませんよ」
またくすくすと笑っている声がくぐもって聞こえてくる。
こんなに楽しそうに笑っているの初めて見る。自分には少し疲れたような、遠慮したような笑みをようやく向けるだけなのに。と心の中にまた黒い煙が立ち込めていた。
しばらく囁くように話してはくすくす笑っている。本当に楽しそうな語り口だった。彼女はこんなに饒舌に自分には語らない。
「わかりました、先生。それでは、またこちらを出る時に連絡します」
カタン、と立ち上がる音が聞こえたので、急いでベッドへと戻る。
水晶をしまったエマが自分の顔を覗き込んでいるのが気配で分かった。水晶玉に体温を吸われたのか、少し冷たい指先で首元を触られている感覚がある。寝ているのを確かめているのか、数度首輪の周りを触っていた。
「良かったわね、ニコ」
声が柔らかく聞こえるのはまた笑っているからだろうか。
今起きているのを知られたところで、俺が見られるのはエマの驚いた顔だけだ。
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