2-14

 ニコが恐る恐るページを捲ったのを横目で見ながら話を続ける。


「じゃあ、まず風の魔法から覚えてもらおうかしら。覚えてると何かと役に立つわよ」


「た、例えば?」


「髪の毛とか乾かしたり」


「へぇー」


 今度の返事にはしっかりと実感がこもっている。頷いているところを見ると、何か思い当たることがあるらしい。

 しかし、ページが中々目次から動かない。目次のページをしげしげと見つめて、何か考え込んでいる様子である。


「ニコ、風の魔法のページを開いて」


「ああ」


 返事だけが返ってくる。

 何を考えているのかと彼の顔を見ると、目を合わせてくれるが、ページは動かなかった。目次の部分に目を滑らせると、『四八頁-風魔法について』と書かれている。

 

「四十八ページ目よ」


 と、指させば、ニコが神妙な面持ちで頷いた。そうして、ゆっくり一ページずつ開いて数字を数え始める。

 そんなにもったいぶることでもないし、丁寧に扱われるべき本でもないのだが、と思ったところで、そこでふとある予感が沸き上がった。

 嫌な予感だ。

 何となく、今までの疑問とも合致してしまって、頭が痛くなった。


「まさか……」


「お、俺……字が読めなくて」


 消え入りそうな告白だった。

 だが、決してあり得ないことではない。出自は木こりと機織りの家の子だ。奴隷になったのは六歳で、もちろん学校にだって通ってなかったろう。

 字が読めない人なんて、珍しくない。自分の周りのほとんどが字の読める人だった私の方が珍しいのだ。同僚で魔導書が読めない魔法使いがいるのを思い出した。


「待って、算術は?」


「さ……」


 思ってたより深刻だ。

 しかし、これでようやく合点がいった。考えれば考えるほど、頷ける。気が付いてやれるところは沢山あったのだ。私の気が利かなかっただけ。見てやらなかっただけだ。メニューを選ばなかったり、地図を食い入るように見たりしていたのもそれに関係するのだ。お金の心配を良くしていたのもきっとそれだったんだろう。どれくらいの値段の物を買っているのかわからなかったからお金の心配をする。

 読み書きや計算は皆が当たり前にできると思っていたが、そんなもの、私の基準だ。自分の態度を酷く悔いた。知らず知らずのうちに、ニコには酷いことをしていた。


「ごめんなさい」


 と思わず謝ってしまう。きょとんとしたニコの顔が更に心苦しかった。

 彼は自分が謝られている理由も、私の驕りも知らない。そんな気持ちにも思い至らないほどに真っ新なのだ。

 きっと誰が悪いというわけでもない。でも、誰かの責任であるはずなのだ。誰かが、ニコに用意されていた機会を奪って、今までの人生を少しずつ不便にしている。もちろん町には読み書きも算術も知らない大人も子供もいる。だが、ニコは少なくとも両親が揃って、職に就き生計を立てていた。学校にだって通うことができていたはずなのだ。

 ニコが奪われた分、分け与えられるのは今私しかいない。

 知識が有限でなくて本当に良かったと思う。


「どうせしばらくは一緒にいるんだから、読み書きも算術も私が教えるわ。あって困ることじゃないし」


 ここでようやくすべてが繋がった。そこで森の中で私と一緒に行くと言っていた話を思い出す。読み書きもできない状況でほったらかされたら、溜まったものじゃない。本人は自立したくてもできない。


「大丈夫よ。みんな知らないことがあるのが当たり前じゃない。私だって知らないことまだたくさんあるわ。一個ずつ知っていきましょう。私が知ってることは私が教えてあげる。だから、ニコが知ってることも私にも教えて」


 そう言って思わずニコの手を握る。

 口から出たのは自分の師の言葉だった。受け売りになるが、誰かに教えるとなったとき、この言葉ほど力強い言葉はないと私は思っている。学校が長い休みの間はいつも先生の家に籠って色んな魔法を教えてもらったことを思い出す。先生もよくこうして私の手を握って、知らないことは恥ずかしい事じゃなくて、知らないままにしようとすることが恥ずかしいことだと教えてくれた。

 それにもったいないとも。機会を逃さないでほしいと。そう教わった。

 言葉の通り、先生は惜しげもなく何でも私に教えてくれたが、私が先生に何かを教えることはとうとうできなかった。先生はそれほどできた人だったし、私は子供だった。

 先生の真似をして、私がどこまでニコに教えることができるのかはわからないが、ニコが少しでも学んでくれたらいいと思う。

 握る手に少しだけ力を込めた。


「ニコは今まで自分勝手な人たちに振り回されてたんだから、今度はニコが振り回し返してもいいんじゃない?」


 彼の手はあったかい。黒い目が私の目を覗き込むように瞬きをする。


「何でも聞いて。知っている限りで教えるわ。私が知らないことはニコと一緒に考える」


「じゃあ、エマは何が好きなんだ?」


 いい笑顔だった。文脈的にそんなことには一ミリも触れていないのだが、輝くような笑みを向けられていては話の腰を折るなんてひどいことはできなかった。尚且つ、ニコは顔がいい。

 私は決して美醜で優劣をつけるような人間ではないと言い切れるが、それでも顔のいい人間に見つめられると迫力がある。自分の師匠もそういえば一般的には顔が良いといわれる部類に入るだろう。あの人もいうことは適当だが、有無を言わせぬ説得力があった。あれも、顔の作りのせいなのだろう。

 今まで勉強の話をしていたのではなかったのか、と思いながらも、思考は質問の答えへと飛んで行ってしまった。

 ニコがうれしそうな顔をしているので恐る恐る、場を繋ごうと画策する。


「そうねぇ……」


 何でも聞いてくれ、と言ってしまった手前、答えないわけにもいかないのだ。

『何が好きか』と口の中でころりと転がしてみる。

 具体的に何かが出てくるわけでもない。好きなものはあったが、もう居なくなってしまったし、これから何を支えに生きるべきなのかと、暗い思考に引き摺りまわされてしまった。趣味もなく、これと言った感慨もなく生きてきたのだ。美しい景色を見れば美しいと思ったが、それどまりで。嫌いな物、避けたいものの姿は浮かぶが、そういわれると好きということ自体が分からなくなっているのかもしれなかった。

 というか、なぜここまで簡単な質問で自己分析をしなければならないのだろうか。なぜこんなことに悩むのか。

 手の中のぬくもりに視線を上げれば、期待に満ちたニコの顔がある。黒い目がきらきらと光っていた。

 答えないわけにはいかない。しばらくは私が彼の師であるのだ。教えられることは何でも教える。分からないことは一緒に考えねばならない。

 一番初めの質問から難題にぶち当たっていた。


「これから見つけるわ」


 私が見つけたのはそれはそれは苦しい答えだった。

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