1-5


「ここは恐らくエリス山の山間」


「エリス山……」


 現状確認のために、広げた地図の一点を指さす。昨日の今日であるから、きっと驚くほどの距離は移動していないはずだ。ニコも地図を覗き込んで、それから怪訝そうに顔を上げた。


「恐らく、というのは?」


 黒い瞳は不安そうに揺れている。


「……私が昨日のことをほとんど覚えていないから。エリス山にいたのは確かだけれども、ここがどこかまでは把握しきれてない」


 カバンの中を漁ると、魔導コンパスが出てくる。

 コンパスの中で二本の針がくるくると回り、そのうちしっかりと方位を示すが、今は読む気にはなれない。頭を振ると、血の粉がぱさぱさと落ちた。

 ニコの方はコンパスを興味深そうに見ている。


「現在地が、一ミリもわからないのだけれど……まぁ、問題ないでしょう」


 コンパスに夢中なニコは顔を上げなかった。

 よくよく、自分の状態を見れば、ひどい。人でも殺してきたかというほど、頭からつま先まで血で汚れていた。私の物は魔物の血であるが、話を聞く限りニコの物は人の血だ。

 魔族の特徴でもある白い髪の毛は、今はつむじから毛先まで赤黒く固まっている。私の長い髪の毛も、血のせいで服や肩口に束になって張り付いている。服や下着は肌に張り付いて気持ちが悪い。


「それより、水浴びしたい」


 幸いにも水は溢れんばかりにある。こんなに澄んだ水を汚すのは申し訳ないような気もするが、今回ばかりは仕方がない。

 まずはブーツから足を引っこ抜く。上着を脱ぐとぱりぱりと音がする。髪の毛が血でくっ付いていたのか、引っ張られて痛かった。本来カーキ色の上着であったが、赤黒く変色している。

 お金を作ったら即買い替えようと決めて、ブーツと一緒に泉の中に投げ込む。バシャバシャと洗えば、透明な水が赤く染まっていった。

 たちまち岸の近くは殺人現場かと思うほどに汚れてしまって申し訳ない気持ちになる。

 ズボンに手をかけて太もも辺りまで脱いだところで、焦ったような声で名前を呼ばれた。


「え、エマ……!」


「何?」


 振り向けば、土下座するような体勢で地面に伏している男がいる。

 まさか、この短時間で魔物に襲われたわけではないだろう。

 耳まで赤い彼を見つめて、それから合点がいった。

 意外と初心だ。 


「別に裸になってるわけではないんだから、ごちゃごちゃ言わない。それより、あんたも服洗いなさい」


「いや、でも……」


 顔も上げずにしゃべるものだから、何を言ってるのかうまく聞き取れない。

 時間も惜しいので、とっととズボンを脱ぎ去ると、冷たい水に覚悟を決めて飛び込んだ。

 冒険を始めて、いろいろなことに妥協できるようになったと思う。

 冷たい水が思考をクリアにする。汚れた髪の毛から血が浮いて流されていく。一皮むけるように、体に付着していた赤色が剥がれ落ちていった。

 心の暗いものもこんな風に溶け落ちてしまえばいいのに、と思う。

 流れて行っているのが、彼らの血だと思い出すと、剥がれていって欲しくなかった。私も一緒に行きたかったのだ。

 冷たい水の中で目を開ける。

 母親譲りの薄桃色の髪の毛は元の色を取り戻していた。

 こんな風に元通りになれば、どんなにいいことか。

 生きるしかない。

 水中の中で目を開ける。思っていたより、水中は赤くない。胎児のように自分の膝を抱えて水中に沈みこむ。すぐに尻が泉の底についた。

 上を見上げれば、私が洗い流した血が流れて行っている。

 お別れを言うこともかなわなかった。

 こと切れる前に私にふり向いたユークは何を思ったのだろうか。助けを求められていたのなら、きっと私は役に立たなかったはずだ。一番最初に引き裂かれた、大蜘蛛のミルハは、ハルピュイアのアルフィスは。最期に何を思ったのだろう。

 冷たい水の中だからか、先ほどのような動悸には襲われない。

 揺らぐ水の底に、投げ入れたブーツが見えた。ずいぶん遠くまで飛んだものだ。

 ゆっくり考え事でもできそうだと思った矢先、水中に逞しい手が伸びてきて、赤い水をかき回した。胎児のように丸まっていた私の二の腕をしっかりと掴むと、そのまま水の上に顔を引き出す。

 そういえば、昨日の夜もこうやって引き留められたなと、薄い色の記憶が一緒に引き上げられた。

 濡れた視界の先には、焦った顔のニコがいる。掴む手に力が入りすぎていて痛い。


「エ、エマ……」


「何?」


 流石に、全体重をニコに任せきりなのは悪いので、立ち上がる。水嵩は胸の下あたりで、楽に水底に足が付いた。細かい砂が指の間に入ってくる感覚がなんともむず痒い。

 黒い視線が胸元に一瞬集まって、それから明後日の方向を向いた。 


「長い事潜っていたから、溺れたのかと……」


「足が付く泉で溺れるような人は突然水には飛び込まないでしょう」


「た、確かに……」


 何をしているのだと冷たく言えば、ニコが僅かに視線をそらしながら納得した。

 私の体が泉の水で冷えたのか、彼の手から伝わる熱が妙に心地よかった。

 濡れた手でニコの汚れた顔を拭いてやる。おとなしくされるがままにされているニコが面白い。額や頬を拭うと、赤く汚れた水が彼の首を伝っていった。

 このままでは日が暮れてしまいそうだ。

 黒い瞳を覗き込むと、また逃げるように反らされる。


「それより、あんたもとっとと水浴びなさい」


「いや、俺はいいよ……」


「……どうして?」


「そ、れは……」


「早く」


 腕を引くと、ニコがたたらを踏む。腕力だけでは、私より体格のいい彼を思い通りに動かすのは難しそうだ。なかなか往生際が悪いので、今度は私が彼の二の腕を握る。太い二の腕にはさすがに指は全部回らなかった。

 なぜだか、私の腕を握るニコの手に力が入る。


「泳げないなら、私が泳ぎ方教えるよ」


「うわ!!」


 そう言って、握った腕と一緒に体を引く。

 黒い瞳が見開かれて、顔から水に入っていった。

 ばしゃん!!

 と大きなしぶきが上がった。


「ついでに私のブーツ拾ってきて」

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