1-6

 ニコがブーツを拾いに行っている間に、長い髪の毛から水を絞る。ある程度絞れたので、試しに風の魔法を唱えると、下着や体は一瞬で乾いた。魔力はそこまで戻っていなかったようで、髪の毛は微妙に濡れたままだ。ズボン、上着もまだ滴るほど濡れている。

 さて、魔族の彼はどれほど魔法が使えるだろうかと考える。

 空気を扱う風の魔法は初等科でも習うような基礎の魔法だから、彼に教えてもおかしなことは起きないだろう。それから、彼にどんな魔法を教えたらいいだろうか。生きるのに必要な魔法は多々あるが、魔族の彼ならばさぞ立派な魔女になるだろう。

 そこまで考えて、はたと思考が切り替わる。

 そもそも、彼は魔法を望んでいるだろうか。魔法を教えたい、というのは私の願望の押し付けに過ぎないのだ。それに、魔法を一から教えるとなると膨大な時間がいる。その時間を私は彼と一緒に過ごすのだろうか。奴隷じゃなくなった彼はどこに行くのか、何をするのか。別に、普通にどこかで働いて生活するのは全く構わないのだ。ただ、魔族としての彼が失われるだけである。次々疑問が浮かんできて、とりあえず、と泉の畔に腰かける。

 考えるのにも頭はまだしっかりと回っていなかった。

 なぜ、ニコと一緒にいるという考えが自然と出てきたのか。

 彼が泉からブーツを拾ってきたことで、思考はぶっつりと切れた。


「エマ、ブーツ拾ってきたよ」


「ありがとう」


 水を吸って重くなってブーツをニコから受け取る。想像していたよりも重さがあったその二つを片手で持つのは難しく、受け取ってすぐにブーツのかかとがまた水に戻ってしまう。

 ニコが笑いながら岸まで上げてくれた。

 もう一度礼を言って、彼の顔を見る。

 伸びっぱなしの白い髪の毛に、怪しく光る黒い瞳。やっぱり魔族だ。私は確信を持った。

 どうにかして彼を魔女にしてやりたい。恩を着せて私についてこさせるということもできるが、残念ながら今恩を着せられているのは私である。どのように説得したものか。

 そんなことを考えていると、ニコが笑顔のまま固まっていることに気が付いた。まさか、石化の呪いをかけられたのではあるまい。


「あら?」


「何……?」


 どうかしたのかと観察していたら、赤いものが見えるので何かと思ったら、ニコの耳の後ろに洗い残しがある。



「え、エマ……」


「あなた、耳の後ろまだ汚れてるわ」


「いや、それより……」


「ちゃんと洗ってきて。血液は感染症の原因にもなるんだから――」


「エマ」


 ニコが真剣な顔で話を遮った。


「ズボンはいて」


 もちろん嫌である。


「嫌。まだびしょびしょだもの」


 ついでに言えば上着も着たくない。せっかくなけなしの魔法で乾かしたのだから、濡れたものを着たくない。

 まだ水が滴る顔をニコが押さえて長い溜息をつく。

 どこか痛いのかと思ったが、私が声をかける前に彼の顔が上がる。

 何か、決意の色が瞳に灯っているように感じた。目が座っているともいうだろう。

 私もさすがにずっと上着を着ないというわけにもいかないので、彼に魔法を使ってもらうことにする。


「さぁ、ニコ。目をつむって」


 そういえば何事かと疑う視線が私に向けられた。別に悪いことをしようとしているわけではないのだから、そんな顔をしなくたっていいだろうと頭の中で抗議する。


「早く」


 少し強く言えば、ニコは不振がりながらも目をつむる。


「それじゃあ、人差し指を出して、それで、そよ風を想像して」


「……そよ風?」


 怪訝そうに呟いたニコの眉間にしわが寄るので、言いかたを変える。


「それじゃあ、手で風を仰ぐようなイメージで」


「……」


 その瞬間に、そよ風ではないだろうというほどの風があたりを吹き抜けて、木に引っかかった私のジャケットを激しく揺らした。


「おお」


 思わず感嘆が漏れる。ばれるかと思ってニコの顔をちらりと見やるが、彼は突然吹いた強い風に髪の毛を乱されたことを気にしているようだった。今まで血濡れだったのに、いまさら何を気にしているのだろうと思う。

 さて、ジャケットの出来具合はどうかというと、完璧であった。すっかりサラサラに乾いている。百点中百二十点満点の出来栄えだ。ニコの魔法の方も、魔力の調節さえ上手くいけば使い物になるだろう。


「ありがとうニコ。助かった」


「……それ、濡れてるんじゃないの?」


「もうすっかり乾いてる」


 汚れも落ちてくれればよかったが、ジャケットの方はまだら模様の斬新なデザインになってしまっている。残念ながら、新しいものを買ったら廃棄するしかないようだ。

 お気に入りだっただけあって、惜しい気持ちでいっぱいだ。

 本当は髪の毛も乾かしたかったが、そう何度も同じ手は使えないだろうと諦める。三つ編みにして肩から垂らしておいた。濡れた髪の毛をそのままにしておくよりはましだ。それに、先ほどの爆風を当てられたら無事でいられる自信はない。

 ニコは未だに怪訝そうな顔をしているが、とりあえず泉から上がってきた。

 用意していたタオルを渡して体を拭かせる。風邪でも引かれたら困るし、世話をできる自信もない。


「血濡れじゃ町にも入れない。門兵にニコの主人が私じゃないってばれたら、二人とも即捕まる」


「それにしたって乱暴だった」


「悪かったわ」


 と、なぜだかすっかり乾いた頭に不思議そうな顔をしていたニコが、水へ引き込んだことへの不満を漏らす。

 きれいになった顔はやはりまだ幼さを残している。


「今日中に街にたどり着くのが目標ね」


 広げた地図の上に魔導コンパスを置いて針を読む。やはり正確な現在位置は分からないが、ざっくりと進むべき方向だけは見えてきた。

 顔を上げると、目の前にニコの顔。彼も地図を覗き込んでいるようだった。地図は読めるらしい。

 太い首にしっかりと鉄の首輪が噛んでいる。溶接されたらしき場所すらもなく、魔法でつけられたものなのだろうと窺い知る。外す方法を後で考えねばならない。


「さすがに首輪むき出しで歩かせるのは気が引けるわね……」


 防寒具があったと思ってカバンの底の方を漁る。いつ入ったのか、数本の枯れ草を巻き込んで、ポンチョが一枚出てきた。


「新しい服を買うまではポンチョでも羽織ってなさい」


「……俺もついていっていいのか?」


「なんで? 逆に一人で町に降りられるの? 奴隷なのに?」


 黒い瞳が嬉しそうにきらきらと光って私のことを見ていた。

 何かに似ていると思ったら、実家で飼っていた犬である。散歩や買い物に連れ歩くときに、確かこんな目をしていた。

 そもそも、ここまでしておいて突き放す方が変な話だろう。所謂乗り掛かった舟である。


「別に、私は奴隷が欲しいわけではないから、町まで連れて行ってあげるだけよ」


 地図をたたみながらそう言うと、ニコが置いていかれまいとするかのように立ち上がった。やる気満々である。

 ニコはきっと私が純粋な気持ちで彼を助けようとしていると思っているに違いない。私の心の中には、魔族への打算やらなにやら渦巻いている。自分の芋地の整理もよくついていないのだ。


「それだけ」


「ありがとう」


 ニコが笑うのも、親切にされて嬉しそうにするのもきっと奴隷であるが故だろう。彼らのように一人で自分の身分が証明できない者は誰かに気に入られていなければならない。

 難儀だ。生き辛いだろう。

 私の魔物たちも私に気に入られるためにすり寄ってきていたのだろうか。今になっては証明のしようがなかったし、そもそも、言葉を知らず、抵抗も奪われていた彼らはきっと何を問いかけても私にすり寄ってきていたのだ。

 思い出を自分で汚しているような気がして頭を振る。

 ニコが顔を覗き込んできたので気持ちを切り替えるように努めた。

「行きましょう」

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