1-4

「それじゃあ、ニコが乗ってた馬車があの四足竜に襲われて、あなたは命からがら逃げて来たってわけ?」


 彼が語った昨夜の出来事をまとめると私の中ではそういう答えが導き出された。

 途中で考えるような仕草を見せていたので、彼の口から語られなかった部分も多いだろうが、事のあらましさえわかれば詳細などは無駄な情報になることさえある。

 彼が頷くのを見て考える。


「単刀直入に聞くけれど、今あなたは誰かに追われているの? 例えば……その奴隷商とか」


 ニコが首を横に振った。

 自分を商品として扱っていた憎い相手であるはずなのに、表情は暗い。喜べ、とまでは言わないが、解放されたような気持ちになってもおかしくないはずなのに、彼は奴隷商の死を悲しんでいる。


「多分、あの魔物に襲われて奴隷商は全員死んだと思う……」


「あら、そう」


 今も頭や服が血濡れの彼を見る限り、そうだろうと頷くしかない。今のニコの姿には説得力があった。

 ようやく動き出した頭が、霞の中から昨日の彼の様子を掘り起こした。

 確か、頭から血が滴っていたはずだ。ニコの頭や顔を見やる。頬や額に小さな裂傷や擦過傷は見受けられるが、その傷が滴るほど出血するとは思えない。実際、彼もどこか痛みがあるような仕草は見せていなかった。

 と、いうことは昨日彼が滴らせていたのは、きっと誰かの返り血だったのだろう。

 彼が襲われたのは、私と出会った場所から血が乾ききらないような距離だったわけだ。

 昨日彼と出会った正確な時間は分からないが、あの四足竜がそう早く動けることはないだろう。もとより、俊敏な生き物ではないし、初めは私も逃げ回ることができていたのだから。


「あの四足竜、どういう風に移動しているのかしら? ニコが襲われた場所が明確に分かればいいのだけれど……」


「……四足竜?」


「ああ、えっと……」


 聞きなれない単語だったのか、ニコが聞き返す。


「ニコも見たでしょう、あの、目玉が多い魔物」


「ああ、あれが四足竜というのか」


「あれは奇形だけれどね」


 至る所についたあの瞳が思い出される。濁っているものや、焦点の合っていないものもあったから、きっとすべての瞳が機能していなかったのだろう。だが、他の四足竜よりも視野が広いのは彼の特性なのだろう。


「奇形?」


「本来なら目は左右に一つずつしかないの。それに、四足竜は本来おとなしい魔物だわ。滅多に人を襲ったりもしないのだけれど……」


 なぜ、あんなにも興奮していたのか。本来温厚な性格の四足竜は荷を運ぶ馬の代わりにもなったりするほど人にも懐く。あれほど攻撃性の高い四足竜を見たのは私も初めてだった。

 あの数の多い瞳がそうさせていたのか、他の要因があったのか。

 あの四足竜の姿を思い浮かべた瞬間に、目の前で引き裂かれた魔物たちのことを思い出してしまって目が眩む。

 血の匂いがフラッシュバックする。体が支えられなくなっているのは分かっていたが、体に力は入らない。自分の意識の外に体が放り出されてしまっていた。動悸がする。拍動が指の先まで伝わってきていたが、動いている自分の心臓が憎らしい。

 あの時に死んでしまっていれば、と心のどこかで声がする。

 私は卑怯だ。 

 後ろに倒れそうになったのを、ニコがそっと支えてくれたので、後ろに倒れることはなかった。

 黒い瞳が心配そうに私のことを見つめていた。


「やっぱり、どこか怪我でもしているのか?」


「大丈夫」


 何とか、小さくそう返して、ニコの手を借りて座りなおす。

 困惑した表情を浮かべた彼が、また私の顔を覗き込んでいる。

 その表情がなぜだかおかしくて、見つめ返した。次第に動悸は収まって、暗い感情も鳴りを潜める。どうにも、気持ちはまだ自分のコントロール下にないようだった。

 あんなことがあったのだから心が弱っても仕方がないと思う反面、もっと自分の心が強ければあんなことは起きなかったと思う自分もいた。

 心が強ければ彼らのことを助けられたのか。

 ニコは今私のことを当たり前のように助けたが、そもそも昨日は何故私を連れて逃げたのか、という疑問が浮かぶ。

 昨日の記憶がないほどに錯乱していた私を連れて行くよりも、自分一人で逃げたほうが、生存確率だって上がったはずだ。 


「なんで、私のこと助けたの?」


「ど、奴隷の仲間かと思ったんだ……」


 言葉尻がどんどん小さくなっていく。

 呆れて言葉も出なかった。

 昨日の状況も考えれば、失礼とは思わなかったが、ニコも相当焦っていたのだろうと感じる。まぁ、生き死にや今後の生活がかかっていたのだから当然だ。

 私が何も言わないので、ニコが思わず言い訳を始める。この状況では何を言っても墓穴なのでは? と思うが、口を挟まないでおいた。


「昨日は暗かったし……お互いに血濡れだったし……それで、泉の近くでエマが意識を失ったから、俺も一緒に寝てたんだけど……」


「奴隷じゃなくて驚いたってわけね……」


 それでようやく昨日の暴言ともとれる発言に合点がいく。要するに、奴隷の仲間を励まそうとしていたわけだ。そして、逃げ出さなかったのも、私のことを奴隷だと思っていたから。

 バツが悪いらしく俯くニコに思わずため息が出る。


「馬鹿ね、私が奴隷じゃないって分かったらすぐに逃げ出せばよかったのに」


「それはできない」


 黒い瞳がしっかりとこちらを見据えてそういった。

 汚れているが、やはり

 世間一般で言えば女性に好かれる顔だろう。

 なぜだかそんなことを考えながら、彼の顔を見返した。


「……エマは昨日死にそうだった。」


 余計なお世話だ、と言いそうになって口をつぐむ。

 ニコはきっと心根が優しいのだ。どの程度奴隷として生活していたのかは知らないが、彼が生き残れていた理由はきっとそれだろう。

 逆の立場であったら、私はニコのことなど気にかけなかったに違いない。生き残るのに必死で彼のことを押しのけてでも逃げただろう。

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