1-3
冷たい匂いに目を覚ますと、泉のほとりだった。体を起こすと、固まった血が、パラパラと髪の毛や服から落ちていく。
水の匂いをかき消すような、生臭い匂いが広がった。
あたりを見回すと、黒い視線とばっちり目が合う。
驚いたような顔が、寝起きの霞がかった頭をさらに混乱させた。
誰だ、あの男。
輝くような白い髪の毛に、夜空を切り取ったような黒い瞳。その特徴は明らかに魔族だ。
そもそも、なぜ私はここに居るのか。
吐き気を催す血の匂いが、昨日の惨劇を思い起こさせる。
そうだ。私は逃げた。
森の木々の間を縫って降り注ぐ光に目がくらんで、瞼の裏の黒を見る。
私の頭の中は昨日の映像でいっぱいだ。胸にこみあげるものはあるが、不思議と涙は出てこなかった。
足音が迫ってきてるのに気が付いて顔を上げる。
男が私の顔を覗き込んでいた。顔からもぱりぱりと乾いた血が剥がれ落ちた。
近くで見れば、昨日私の腕を引いていた男だ。
まだ幼さの残る目元などを見ると、成人はしていなさそうだ。青年というには幼いし、少年というにはがっしりとしていた。
黒い瞳は私の汚れた顔をじっと見つめている。品定めでもしているのかと思ったが、後ろに組まれた手は一向に降ろされなかった。
きっと彼なら私に勝てるだろう。殺すでも何でも好きにしてくれと言う自分勝手な気持ちが湧き出てきて、はっとする。
遠慮がちに覗いてくる黒い瞳に失礼な奴だと思いなおした。
「……失礼ですけど、お名前は?」
攻撃的な言いかたになってしまったのに気が付いて、せめて表情だけでもと笑って見せるが、遅い。
男の方は怪訝そうな顔で私のことを見ていた。
だが、口は開かない。
にらみ合って数分。とうとう、頬の筋肉が痙攣するのではないかと思って、無理な笑顔をやめる。笑っていられる心境でもないのだ。
男は口を開かない。
白い髪の毛に似合わない真っ黒な瞳が、自分の瞳を覗いていた。
あまりにも長い時間しゃべらないので、しゃべれないのかとも思ったが、そんなはずはない。昨日森の中で「胸糞悪い」と罵られたはずだ。さらに笑えなくなった。
繕うのも面倒である。
もしかして無口な人なのか、とか、人見知りだったかなどと考えを巡らせるほどに時間が経った頃、ようやく声が聞こえた。
「……普通、人に名前を尋ねる時は自分から名乗るものなのでは?」
「ああ?」
思わず低い声が出る。
自分の眉間にしわが寄ったのが分かるが、もうどうでもよかった。
自己紹介をしようと深く息を吸い込むと、なぜだか少しすっきりした気持ちになる。吸い込んだ空気は自分のせいで血なまぐさい。
「エマ。エマ・シンシドナだよ。生まれはタニア・アレスカのウェルトリア・シュレー地方のシンシドナ領」
一息でそこまで言い切る。
「で、あなたは?」
「……」
また、だんまりだ。一体この男は何がしたいのだろうか。
本心が読めない。黒い瞳を覗き込むと、逃げるように反らされた。
沈黙。暇なので、彼の身なりを観察する。昨日の暗さでは気が付かなかったが、春先の朝晩は寒い時期だというのに、裾が擦り切れた粗末なシャツしか着ていない。血濡れで赤黒いのはお互い様であるが、それにしてもおかしな格好だ。
私の視線に気が付いたのか、彼が俯く。
首につけられた鉄の首輪が目に入って合点がいく。
彼は奴隷だ。逃げ出したのだろう。
だが、私といる意味は何なのだろうか。
「もしかして、名前がないの?」
「……」
黙る彼が答えなのだろう。
冷静に考えれば、奴隷に名前があることの方が珍しい。
「それは悪いことをしたわね……」
これは本心だった。彼らは馬鹿にされるべきではないし、決して私たちより下の存在ではない。みな平等であるべきなのだ。自分から望んで奴隷になるものなどいない。
ましてや、彼は昨日私のことを助けた。奴隷商か主人かわからないが、逃亡中の身でありながら、放心状態の私を連れて森を彷徨ったのだ。
黙った私に怯えるように、俯く首元を見れば、錆びた鉄の首輪が付いている。数字が彫られていたらしいが、血の汚れと錆びのせいで『25』しか読み取れない。
ぼんやりとそれを眺めているとひらめく。
「じゃあ、ニコなんてどう?」
動物につけるように名前を口にしてしまったが、自分にネーミングセンスがあるとも思えない。なにか由来がある方が、彼も親しみやすいだろう。
それに、さえない頭では彼の魔族的特徴に偏って「シロ」とか「クロ」とか、犬や猫のような名前を付けてしまいそうな気がする。
流石にそれは失礼だろう。
「別に、正式な名前というわけじゃないよ。ずっと、おまえとかあんたとかそういう風に呼ぶのは憚られるでしょう。まるで仲が悪いみたい」
顔を上げた彼にそのように言い訳をする。別に名乗りたい名前があるというのならそれを名乗ればいいだろうとも思った。
驚いたような顔をしていたが、なぜだか口元は嬉しそうだ。黒い瞳がやはり印象的だ。
「まぁ、仲がいいってわけでもないけど」
と、思い直して付け加えておく。今のところ彼の印象が、不愛想で、無口て自分勝手という人としてゼロ点をつけてしまいかねない要素しか備えていないのだ。決して仲良くなりたいとも思わない。唯一評価できるところと言えば、私のことを助けた心根の優しさ位だ。
「どう? 別に変なことを言ってるわけじゃないでしょ? まぁ、嫌ならほかの名前を考えましょう」
「ニコでいい」
シロかクロは流石に避けようと考えだした瞬間に、彼が短くそういう。
また俯いた顔をどうしたのかと覗き込めば、嬉しそうに口元はほころんでいた。
あら、かわいい。
そう思ったのは内緒だ。
図体はでかいが、心にはまだ子供が住んでいるに違いない。
「あ、そう?」
と、何でもない風に返す。
口元はきっと見られていないだろう。
小さいころ、生まれたばかりのハルピュイアに名前を付けたことを思い出す。彼女は生まれたばかりでまだきっと意味も分かっていなかっただろうけれども、彼女が人間ならば、こんな顔をしただろうか。
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