メイドの話 2

 笑い声が上がった。

 世界中の泥が一斉に音を立てたかのような笑い声だった。

 視線を感じる。

 メイドがこちらを睨んでいる。

 恐怖も、罪悪感も浮かばなかったのは、彼女自身がどれほど理不尽な怒りを持っているのか理解しているから。

 あの場で助けられるのは蛇だけだった。

 そして蛇が助けるとしたら、仲間であるラーニエの方。

「滑稽だな?」

 不意打ちを受けて倒れこみ、負けを認めざるを得ない格好であるにも関わらず、魔物は勝ち誇ったように言った。

 それを証明するように、奴は悠然と立ち上がる。

 とっさに距離をとったのは、どういう動きをしてくるか予想もつかなかったから。

 だが、奴はすぐそばのラーニエのことなど全く興味をなくしていたようだった。

「さあ、これでお前の立場もわかっただろう。こちらにきてもらおうか。鼬」

 ラーニエだけではない。メイドにも興味をなくしている。

 目的以外は、興味がない。

 だが当の白鼬は、魔物に背を向けメイドを見上げていた。

 それに気づいて、む、と魔物が眉をひそめる。

 メイドは。

 メイドは、俯いていた。

 まるで、何かを堪えるように。

 しかし、握った拳が、震えている。

 土手が決壊する前兆のように。

「……ご主人様」

 ぽつりと、呟いた。

 顔を上げ、眼帯に手をかける。

 ラーニエでさえ、予感に息を呑んだ。

 魔物の方は。

「捕らえろ!」

 声を裏返していた。

 だが、いきなりの命令にすぐ反応できた配下はおらず。

「ご主人様あああああっ!」

 メイドは絶叫しながら眼帯を外した。

 その奥から溢れ出たのは、目ではなく不穏さすら感じる真紅の光。

 それを見たものは、みな動きを止めた。

 ある者は、気味の悪さに。

 ある者は、単に気圧されて。

 ある者は、恐怖におののいて。

 ただ一匹、例外がいた。

 その光を一身に浴びた、白鼬。

 目にも留まらぬ速さで走り回り、魔物たちを薙ぎ倒す。

 通った後には、的確に喉を掻っ切られ血を吹いている死体が残った。

 そしてマントの魔物の目と鼻の先で、止まった。

「久しぶりだな。まだこんなことやってたのか」

 地獄の使いのようだ、というのが第一印象だった。

 剣のような牙と血のように赤い瞳を持ち、額に呪いの宝石のような珠をつけた巨大な白鼬が、鎌のように禍々しい爪を喉元に突きつけていた。

「な……なぜ」

 本当に予想もしていなかったのか、魔物が怯えた表情を見せている。

 もともと青白い顔がより青くなっているような気がする。

「なぜ? ああ、僕は今アイツと契約中でね。力をほとんどアイツの目に閉じ込めてたんだよ。それでお前らも僕の消息をなかなか掴めなかったってわけだ。ん、そういうことじゃない?」

 ぺちゃくちゃと一人で楽しそうに喋り続け、キュッキュッ、と笑う。

「俺を……殺せば教会に捕らえた者は皆死ぬぞ」

 苦しそうに目を見開きながら、それでも魔物が笑う。あくまでも高圧的に。マントを羽織るものに相応しく。

「そう命じてあるのか」

「そうだ」

 その会話を聞いて、背筋がぞっとした。

 勢いのままこいつまで殺さなくてよかった。失敗に失敗を重ね、大失敗をするところだった。

 ——いや、すでに大失敗はしている。

 そう思って屋敷の主人の方へ目を向ける。

 メイドが駆け寄っていた。そして、なぜか祈りを捧げている。

 凝視してしまったのは、普通の祈り方ではなかったから。

 右手で主人の傷を抑え、左手で自身の胸を抑える。

 その祈り方は、治癒魔法のそれだ。

 彼女は、魔法医師なのか。

「それはいいことを聞いた」

「何?」

 鼬が次々に言葉を紡いでいるのは、あるいは彼女の方に意識を向かせないためなのかもしれない。

「ここにいる魔物だけを、皆殺しにすればいいわけだろ? 簡単さ」

 だが、さすがにこの発言には耳を疑わざるを得なかった。

 魔物をだけ、皆殺しにする?

 そんな器用なことができるのか。この鼬が。

 それに、それだけの力があるのか。

 そこまで思って、いや、と考え直す。

 この鼬は、ケット・シーと蛇が警戒した魔物なのだ。

「強がりはよせ」

 マントを揺らしながら、奴はあくまでも高圧的に言ったが、強がっているのはどちらなのか。

「自分で言っておいて忘れたのか? 僕は月の化身だぞ。お前、人間で言うところのアレじゃないか? ええっと——そう、ボケってヤツ」

 余裕綽々に長話をする鼬を見れば、すぐにわかる。

 もっとも、一度強がってしまうと後には引けなくなるのは、人間も魔物も同じらしい。

「だが、空を見たまえ。今は夕暮れ時だ。まだ夜ではない。月がなければお前も力は出せまい」

「一番星どころか、十番星くらいとっくに出てるけどな」

 キュッキュッ、と鼬が笑う。

 だが、それはほんの少しの間だった。

「それに」

 と口にした時には、笑みは消え、真紅の瞳に刃物のような殺意を浮かべていた。

 紫の珠が、青白く光る。

「これは人間も魔物も結構勘違いしてることなんだけど——真昼間で月が見えなくても、別に消えてるわけじゃないんでね」

 魔法学最大の謎のうちの一つ。

 太陽や月の力を使う魔法は、なぜ一日中使えるのか。

 つい最近の結論だ。

 見えなくても、消えているわけではないから。

 鼬が飛び上がった。

 青白い光は全身を包み、まるで紅の空に突如月が浮かび上がったかのように見える。

「さっきの質問に答えようか」

 と、月の化身が言った。

 まるで、極刑の宣告のように。

 悟るほかなかった。

 この月に、懺悔は通じない。

「僕は、この世界の月が結構好きなんだ。お前らに荒らされたら困る」

 瞬間、鼬の体から光が飛び散った。

 流星のようにも見えるそれは的確に魔物を貫く。

 絶叫、怒号、絶望の涙。

 見る人が見れば、浄化の光と表現するだろう。だから、崇められたのだ。

 だが、吐き気すら覚える死臭の中、ラーニエはそう思えなかった。

 むしろ、確信する。

 あの鼬は、神ではない。

 地獄の使者なのだ、と。

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