メイドの話 1

 きいきい、と白鼬の声も聞こえる。

 その声に、いつもと違う威嚇の感情が混ざっているのがわかった。

「待ちわびたぞ」

 魔物はそう言うと、ラーニエから興味をなくしたようだった。

 顎を離し、立ち上がる。

 体の痺れはとっくに取れている。反撃してやろうと身じろぎした瞬間、スケルトンに剣を突きつけられた。

 ち、という鮮明な音に自分が驚く。

 無意識に舌を打っていた。

 それくらい、苛立っている。

 スケルトンに対してなのか、自分の無力さに対してなのか。

 どちらにしても、かつてないほど苛立っていた。

 なぜ今この状況で苛立ちという感情が湧いてくるのかわからないほどに。

「やれやれ、魔王様から捕らえよとの命令だったが……年月とは残酷なものだな。あの月の化身も、ここまで堕ちるとは。見る影もないではないか」

 いったい誰に向かっての言葉なのか、と考えるまでもない。

 それが理解できないほど、ラーニエも阿呆ではない。

 白鼬だ。

 こいつが狙っているのは、あの、破壊神。

 ぎぎい、と白鼬が牙を見せる。

 ケット・シーは白チビと呼んだ。

 それほど小さくはないが、大きくもない。

 瞳はつぶらで、黙っていれば精巧な人形のように見えるほど愛らしい。

 とても、魔王が捕らえよと命ずるほどの重要な存在のようには思えない。

 だが、と、ふとケット・シーの方を見る。

 体を伏せ、狩りの体勢のまま、固まっている彼もまた、白鼬を警戒していた。

 同じ破壊神同士、反発し合うのかと思っていたが、もし、そうでないとしたら。

「まあいい。そいつを渡してもらおうか」

 魔物の言葉に、メイドは少しの間黙った。

 それについて考えているのではなく、躊躇っているのだろう。目を細め、自分の足元を見つめている。

 躊躇うということは、最初からそう言われることを覚悟していたということでもある。

 どう行動するかも、決まっている。

「わかり、ました」

 彼女がそう言った瞬間、キィッ? と白鼬が叫んで振り返った。

 どうやら白鼬は徹底抗戦するつもりだったらしい。

 それだけの自信があるのか、それとも、彼らに捕まるくらいなら死んだ方がマシだと思っているのか。

 メイドが、目を見開いて驚愕の表情を浮かべる白鼬を抱き上げる。

「ギギィッ!」

「いっ……!」

 妙な呻き声を上げてメイドが腕を振り上げた。

 その途端、白鼬が飛び降りて、メイドから距離を取る。

 メイドの腕から、ぷっくりと血が浮かんでいるのが見えた。噛まれたのだ。それも結構な勢いで。

 ほう、と魔物が不気味に呟いた。

「月の化身。それが答えか。なら、こうしてやろうか」

 連れてこい、と配下に命じる。

 包帯を巻いた大男が、教会へと消えた。

 やがて連れてこられたのは。

「ご、ご主人様!」

 屋敷の主人だった。

 最後に会った時と比べてより威厳があるように見えるのは、立派な鎧を着ているから。

 不自然に見えるのは兜がないからだ。

 露出した喉元に槍が突きつけられている。

 縛られている様子はない。ラーニエもそうだが、縄で縛ると言う概念が魔物たちにはないのかもしれない。

 なんとなく、想像できた。

 強い者が弱い者を自由にできる、魔物の世界。気に入らなければ、殺せばいい。

 死にたくないなら、強くなって喉元に牙を立てればいい。

 だから縛る必要がない。利用価値がなくなれば殺すから。

 縛らないというのは、そういう価値観の表れなのだろう。

 ゴクリと喉がなった。

「さて、鼬の主よ。交渉といこうじゃないか。そいつを渡してくれれば、この男を返してやろう。どうしたいかね?」

 ギィ、と白鼬が唸る。

「お前にはきいていない。お前の主人にたずねているのだ」

 鼬は断固反対なのだろう。

 だが、その小さな体で、決定権を持つのは難しい。

 屋敷の主人は何も言わず、槍をものともせずにメイドを睨みつけていた。

 怒っているわけではない、と直感する。

 何かを訴えているのだ。

 それが何であるのかはわからない。

 だが、メイドは意を決しているようだった。

 そうでなければ、目から涙は流さない。

「お渡しします」

 確固たる意志の表れのように、彼女はそう言った。

「なので……ご主人様を、返してください」

 最後は声が震えていた。

 大泣きしなかったのはなかなかのものだと言える。ラーニエなら泣き叫んでいたかもしれない。

 鼬を捕まえ、抱き上げる。

 当然、抵抗を受けた。思い切り、腕を噛みつかれる。

 今度は離さなかった。

 ゆっくりと、魔物へと足を進める。

 ふと、ラーニエは彼女が自分に向かって歩いてきているような錯覚をした。

 確かにラーニエは魔物のそばにいるのだから、そうとも言えるのかもしれない。

 だが、それ以上に不吉な予感がした。

 彼女が不吉そのものを背負い、ゆっくりと歩いてきているような気がする。

 今すぐにそれを解明しなければ、何か——悪いことが起こる。そのような確信があった。

 メイドを見つめる。

 いったいなぜ、そう感じるのか。

 ギィィィ! と、鼬が叫び声をあげる。

 ふにゃあ、とケット・シーが威嚇の声を上げる。

 蛇は、何も言わなかった。不気味なほどに。

 ユリカが、不安そうにその瞳を見上げている。

 出し抜けに、気がついた。

 気がついた瞬間、叫んでいた。

「待ってください!」

 メイドが、ピタリと足を止める。

 えっ、と、声をあげ、こちらを見た。

 相手の目的は、鼬を手に入れることだ。

 ラーニエも、そして屋敷の主人も、交換のための餌として捕らえられている。

 だが、自分たちは縄で縛られていないのだ。普通はされることを、されていない。

 なぜ?

 簡単な話。

「私たちを、殺す気ですね?」

 生きて返すつもりはないからだ。

 気に入らなければ、殺せばいい。

 というか、本当に生きて返せば即座に反撃されるのはわかりきったこと。

 蛇が何もしなかったのは、今すぐユリカに危害が及ぶことはないと判断したからだ。

 魔物の顔を見た。

 奴は大げさなほど嫌そうな顔をしていた。

 それで、確信する。正解だったと。

 メイドはもう、一歩も足を動かさない。

 計画は瓦解した。

 なら、次にどう行動するかは、明白。

 たった一言だった。

「殺せ」

 わかっていた。わかっていたが、だからといって危機を回避できるかどうかは別の話。

 自然と、目がユリカの方へ動く。

 目配せ、というにはあまりにも一方的すぎる。

 何せユリカはこちらを見すらしなかったのだから。

「蛇!」

 それくらい、彼女は聡明なのだ。

 ケット・シーは動けない。動けば今ここにいる全員が死ぬ。

 なんとか敵だけを追い払えそうな者は、蛇しかいない。

 そして蛇は、ユリカに忠誠を誓っている。

 目にも留まらぬ早業だった。

 ラーニエを剣で突き殺そうとしたスケルトンが、文字通り消し炭になった。

 それを見た周りの魔物たちが一瞬怯む。

 立ち上がるくらいなら、それだけで十分。

 彼らを振り払い、マントを羽織った魔物に体当たりを食らわせる。

 驚愕した表情で、何、と口が動く。

 だが声は、絶叫に掻き消された。

 蛇は一匹しかいない。

 二人を同時に助けることは、できなかったのだ。

「ご」

 喉を鳴らすような声で、メイドが言った。

 目を見開き、腕が力をなくす。

「ご主人様ぁっ!」

 続いたのは、悲鳴のような絶叫だった。

 屋敷の主人の腹に、スケルトンの槍が突き刺さっていた。

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