魔王軍の侵略 5

 吹雪の王鹿の剥製を持っていれば富豪だと思うし、そういう人に仕えているメイドは良家の出身だろうと思う。

 なら、神学校の鎧を着て、旅をしている子供がいたら?

 もちろん、卒業予備生——勇者だと思う。

 事実がどうあれ、それ以外には見えないのだから。

 ものを持つということは、それなりの責任が伴うのだ。

 ラーニエは悲痛な声をあげ頭を下げるメイドを見おろしながら、それを実感していた。

 言うことなどできなかった。

 自分はもう、神学校とは関係がないのだ、などとは。

 さらにいえば、あんな大軍を倒し、かつ人々を助け出せるほどの実力はない、などとは。

 ごめんなさい、とは口が裂けても言えなかった。

 しかし、そう易々と頷けることでもない。

「……」

 それなのに、メイドから目をそらすこともできないのだ。

 不気味なほどの無音。

 鳥の鳴き声も、虫の音も、呼吸の音すら聞こえない。

 逃げ出したくなるような沈黙を破ったのは、メイドだった。

「……わたくしでできることがあれば、何でも致します」

 顔を上げた彼女の瞳は、真剣なものだ。

 火吹き大蛇がユリカを見る目に似ている。

 死ねと言われれば躊躇いなく首を切る覚悟ができている、そういう者の目だ。

 戦争。

 これが、戦争なのだ。

 だが、ラーニエは勇者でもなければ、教官でも軍曹でも、ましてや国王や神でもない。

 誰かに何かを命令できる人間ではない。

「それでは、ここで待っていてください」

 そう告げると「え?」とメイドは眉をひそめた。

 せっっかく覚悟を決めたのに、という不満が見え隠れしている。

 虚を突かれた顔というのは、こういうことを指すのだと思う。

 とはいえ、何も好き好んで死にたいわけではないはず。

「会いに行ってみようと思います」

 そう続けると、彼女はますます奇妙なものを見るような目をした。

 見ようによっては馬鹿にされているようにも思える。

 そして実際、そのようなものなのだろう。

 だがラーニエも、考えなしにそんなことを言ったのではない。

「あの魔物は、人質を取っていました。つまり、交渉の余地があるということです。誰と何を交渉したいのかはわかりませんが」

 珍しい、とケット・シーは思ったかもしれない。

 そんな風に期待してその姿を探すと、窓際であくびをしていた。

 興味がないのかもしれない。あるいは、どちらにしても面倒そうなことには変わりがないから早くしろ、という催促なのかもしれない。

 その両方かもしれないが、少し落ち込んでしまう。ちょっとかっこいいこと言ったつもりなのにな、と。

 それが良くない感情なのはわかっているので、何も言わずにメイドに目を戻す。

 彼女もまた、こちらを見ていなかった。

 目を伏せ、あらぬところを見つめている。

 キュイ、と白鼬が甲高い声をあげた。静かな部屋の中、風を切る矢のように耳に突き刺さる。

 いつものうるささとは違う、只ならぬ雰囲気が声に含まれているような気がする。

 予感がした。

「……何か、ご存知で?」

 疑問を投げてみて、それが確信へと変わる。

「えっ? ええ——いえ、何も」

 弾かれたように目を丸くして、こちらを凝視する。

 わかりやすすぎる動揺。

 彼女が幼い子供なら、首を振っていたことだろう。

 キイッ、と白鼬が叫ぶ。まるで批難するように。

 メイドがばつの悪そうな顔をして、目だけで白鼬を見る。

 だが、何も言わない。

 正直に言うと、ラーニエもまた、動揺していた。

 この状況を、どう捉えれば良いのか。

 彼女が何かを隠しているのは間違いない。

 それが何なのかは大きな問題ではない。

 重要なのは、彼女を信用していいのかどうかということだ。

 例えば、彼女がこちらを罠に嵌めようとしている、とか。

 例えば、どうしてもラーニエを魔物の元へ行かせたくない理由がある、とか。

 ——いや、と心の中で頭を振る。

 彼女が何を隠しているにせよ、それで人格まで疑ってはいけない。

 忘れるな、自分たちがどれだけ彼女に助けられたのかを。

 それの恩返しが疑念の目では、神に顔向けができない。というか、自分が批判したこの町の人と同じになってしまう。

 考えるな。彼女にも事情はある。

 なんなら、自分だって彼女に隠し事をしているのだから。

 振り払うために、息を吐く。

 そして、怯えすら浮かべている彼女の顔を見据える。

 そして、笑ってみせた。

「なら——、もし、何か……例えば、私が失敗したりしたら、お逃げください」

 この言葉がどういう意味か、わからない彼女ではないと思った。

 そして事実、その通りだった。

 少し目を見開き、そして泣きそうな顔をする。

 だが、それはほんの一瞬だった。ラーニエが気にならないくらいに。

「お気をつけくださいませ」

 そう言って頭を垂れた彼女が、本気でこちらを心配してくれているのだと確信するのには、十分な丁寧さだった。

 話はまとまった。

 あとは、とユリカを見る。

「あたしも行きます。何かできることがあるかもしれませんし」

「無理しなくてもいいんですよ」

 と口では言うが、正直ありがたかった。

 魔物と相対するのも恐ろしいのだ。

 あの大軍、そしてそれを率いる魔物となんて、一人で対等に話ができるわけがない。

 いや、そもそも途中で逃げ出してしまうかもしれない。

 いきなり殺される、ということは、多分ない、はず。

 それならとっくに襲われているはずだ。

 頭ではわかっていても、気持ちはついていかない。

 でも、二人なら。

 それも、教会を飲み込み悪魔とさえ呼ばれた火吹き大蛇と心を通わすような、強い彼女が一緒なら。

 仮に逃げ出そうとしても、きっと自分を引き戻してくれる。

 ケット・シーを見ると、胡乱な瞳で睨まれた。

 だが、やれやれと言わんばかりに気怠げな動きで、結局はラーニエの足に体を擦り付ける。

「ま、白チビと一緒にいるよりマシにゃ」

 と、直接言い放ったので肝を潰した。

 慌ててメイドの方を見たが激しい怒りを露わにしたのは白チビ——鼬の方だった。

 ギイギイギイ、と抗議の声をあげ、牙を見せている。

 小さくて可愛らしい牙だが、そうも言っていられないほどの形相にギョッとする。

「ちょっと、ケット・シー!」

「ほら、やめなさいキャシー!」

 睨み合う二匹を摘み上げ、顔を見合わせて苦笑する。

 同じ悩みを持つ同士なのだ。彼女が自分に危害を加えようと思っているはずがない。

 そして、何としても彼女の願いを果たさなければならない。

 深呼吸をする。

「行ってきます」

 シャーッ、というケット・シーと白鼬の威嚇の声が、尾鰭のように続いた。

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