魔王軍の侵略 4

 それはまるで、馬車の車輪が軋む音のように聞こえた。

 凶報を伝えにきた、配達員の古い馬車。そんなものを思い浮かべる。

 もちろん、振り返っても連想したようなものは存在せず、いたのは白鼬だけだ。

 だが、凶報を伝えにきたという予感は間違っていない。

 そうでなければ、こんな時に大騒ぎしながらくるくると暴れることはないだろう。

 時折立ち止まり、いらついた様子でこちらを睨む。

「何があったの?」

 たずねるとギイッ! と叫んでどこかへ走り出す。

 こちらの動揺などお構いなし。

 ラーニエたちを置き去りにする勢いだ。

「私たちも行こう!」

 慌てて声をかけると、ユリカは「はい」といい返事。

 蛇はなぜか巨体を伏せたが「ユリカ様がそう仰るのなら」と特に否定する様子はない。

「えー、いやにゃー。面倒な予感がするにゃ……」

 うじうじと座り込んで動きたくないの姿勢を取るケット・シーの脇を抱き上げる。

 今更ながら、意外と胴が長いことに気がついた。

「にゃ? にゃあ! 降ろせにゃああ!」

 足をばたばたさせるケット・シーを無視し、ユリカを見る。

 彼女はいたって真剣な表情で頷いた。

 走る。

 ある程度道が整備されてあることに感謝する。

 小さな体で身軽に駆けていく白鼬は足を緩める気配はない。

「にゃああ! にゃああああああっ!」

 行きたくないのに無理やり連行されていること、自由が全くないこと、その他諸々理由で絶叫するケット・シーがだんだん哀れに思えてきた。

 だがここで同情して降ろしたらどこへ行かれるかわからない。

 一緒に戦ってくれないという心配より、何かあって暴れられたら困る。

 このケット・シーは自分の力がどれほどのものかをよくわかっていない。

 いや、自分が最強だと傲慢な考えを持ってはいるのだが、まさかちょっと魔法を使っただけで町が吹き飛ぶという想像はしていまい。

 ついでに言えば、この毛皮を持つ生き物特有の温かさが少し癖になってきた。

「わかったにゃあああ! ついて行くから降ろせにゃああああっ!」

 ……そこまで言われたら、降ろさない理由はない。

「ちゃんとついて来てね」

 言いながら降ろしてあげる。

 正確には腕の力を緩めた瞬間自分から飛び降りていった。

 そして自分で言った通り、ちゃんとついて来てくれる。

 いや、むしろ颯爽と追い抜いていったので、どちらかというとラーニエがケット・シーを追いかける形になってしまった。

 やる気があるというより、多分あの白鼬に対抗心を燃やしているのだろう。

 絶対追い抜いてやる、という気概がうかがえる。

 だが、いくら負けん気の強いケット・シーとはいえ目的地を知らないのでは競争にならない。

 横に並ぶことはあっても、ついに追い抜くことはなかった。

 町は、いやに静かだった。

 魔王軍に襲われているとは全く思えないほどに。

 だがむしろ、この静けさこそが戦いの爪痕なのだということはすぐにわかる。

 昨日繁盛していた商店街が、今は野良犬一匹見かけることができない。鳥の鳴き声すらしないのだ。

 哀しさとか、怒りとか、焦りとか、そういう気配すら存在していなかった。

 一切の感情も感じることができない。

 ただ、人がいないだけ。

 死んだような、という形容をそのまま体現したかのような閑散が続いていた。

 そんな町を走るうちに、鼬がどこへ向かっているのか察する。

 通る道に見覚えがあった。

 それに気づいた時、言い知れない恐怖に襲われた。

 この鼬が向かっているのは、教会の方向だった。

 直前の曲がり角で路地裏に入る。

 途端に穢れがラーニエの鼻をついた。

 食べ物が腐った臭い、あるいは人間の生活の臭い。そういったものが混ざり合った強烈な臭いだ。

 人間であるラーニエですら顔をしかめたのだ。

 魔物であるケット・シーは足を止めた。

 だがそれがほんの一瞬だったのは、白鼬が躊躇うことなく走り続けるから。

 ケット・シーの無駄な負けず嫌いは、この程度では折れたりしない。

 意を決したように後を追う。

 幸い、それもすぐに終わった。

 白鼬が建物の中に飛び込んだからだ。

 それは二階建ての建物だった。

 風化してボロボロの看板によると、宿屋らしい。それだけで、値段と部屋の大きさ、そしてベッドの質がうかがえる。

「我はここで待とう」

 そう言った蛇にうなずいて、中に入る。

 埃っぽい匂いがする一階を通り過ぎ、二階にあがる。

 幽霊話をいくらでも作れそうな部屋のうちの一つに、メイドが待っていた。

「やっと来ましたね」

 こちらの姿を認めると、彼女はそう言った。

 その顔に、微かな怒りがうかがえる。

 何か怒らせるようなことをしただろうか、というふうには思わなかった。

 彼女は、焦っているのだ。

「何かあったんですか?」

 たずねると、こくりと頷く。

「これを」

 そして、窓の方を見る。

 ラーニエは、まずユリカを見た。

 ユリカもこちらを見つめている。

 予感がする。

 底の知れない深淵に踏み入れるかのようだ。

 圧倒的な恐怖に立ち向かうなら、一人よりも二人の方がいい。

 そう考えて、いや、と思い直した。

 二人じゃない。

 二人と、一匹だ。

 ラーニエたちは、同時に窓の外を見た。

「……ラーニエさん」

 そして、ユリカが愕然とした様子で呟く。

「……」

 ラーニエの方はそれに言葉を返すこともできない。

 神聖な教会。

 本来はそこに神が在らせられるはずのその場所に、魔物が居座っていた。

 一匹や二匹ではない。大軍だ。

 ざっと見ただけではどれほどの数があるのか見当もつかない。

 大型のものから小型のものまで、ありとあらゆる魔物が教会を取り囲んでいる。

 それはまるで、人間が犯した数々の罪のように思えた。

 人間は間違う。

 小さな間違いから大きな間違いまで、様々な悪意を持つ。

 そういったものがここに集結し、教会を破壊しようとしている。

 むろんそれは想像に過ぎない。

 魔物は魔物。昔、魔界から突如現れた生き物以上の意味はない。

 善か、それとも悪かは、それとは全く関係のないことだ。

 悪意ある大軍の前に、一体の魔物がいた。

 傍目から見ると、それは人間のように見える。

 トロールのように巨体ではなく、また堕落した体型でもない。

 だが、身に纏う漆黒のマントには煌びやかな刺繍が施されてあった。

 高貴な人間が皆堕落しているわけではなく、それは魔物も同じらしい。

 筋張った青白い顔の冷たい瞳は知的な狐を思わせる。それくらい、静かだった。

「あそこに、町の人たちが囚われているのです」

 メイドが口を挟む。

 人質。

 なるほど、と思った。

 あの魔物は頭がいいらしい。

 だが、目に映る人間を皆殺しにするのではなく、捕らえて生かしておくからには何か目的があるはずだ。

 何かを、待っている?

 だが、なにを。

「なんとか、なりませんか」

 メイドが言う。

 多分、なんとかならないはずがない、と思っているはずだ。

 ラーニエはそういう鎧を着ているのだから。

 だが、言うは易し、行うは難し。

 そしてラーニエはケット・シーや蛇に頼らなければスライムすらまともに倒せないポンコツなのだ。

「……」

 難しい、と思った。

 人がいるところにケット・シーの魔法を撃ち込むことはできない。肩に飛び乗ってきたこの魔物は加減ができない。

 蛇もまた然りだ。

 両手両足を封じられたも同然。

「目を覚ましたらご主人様が魔物と戦っておられました。そしてわたくしに逃げろと。わたくしは……従ってしまいました」

 震える声に振り返ると、眼帯をしていない方の目から、涙が流れていた。

 なのに、青い瞳は曇っている。むしろ涙が流れるたびに陰っていくような気さえした。

 いや、それは気のせいなんかではなかったのかもしれない。

「虫のいい話なのはわかっています。ですが……お願いします。ご主人様を、助けてください!」

 悲鳴のように叫び、彼女は頭を下げた。

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