魔王軍の侵略 2
大きすぎて屋敷に入ることができない蛇と、その蛇の要望でユリカを外に残し、気絶したメイドを抱え屋敷の中を走る主人の後を追う。
手馴れている。さすが元旅人だっただけはある、といったところ。
きっと、美しい風景を絵にするために沢山の血を見る、そんな旅をしてきたのだろう。
血では収まらず死に直面したこともあったかもしれない。
そこまで考えて、いや、と目を細める。
こんな風に他人事のように考えてはいけない。
ラーニエはこれから魔物の大軍と戦うのだ。
血も、死体も、見る。
そう考えると、少し気後れがした。
怖い。
自分自身がその一員になるかもしない——というのも、確かに怖い。
だがそれ以上に、魔物の死体というものが怖かった。
蛇に言えば未だにそんなことを言っているのかと怒鳴られるだろう。そんな愚者の側に我が主をいさせるわけにはいかないと。
ケット・シーに言えば救いようがない腰抜け、と笑われるかもしれない。
救いようがない。その通り。
このままでは、誰も、何も救えない。多分、自分自身の未来さえも。
それでも、例えばトロールや吹雪の王鹿の死体を思い浮かべることができなかった。
剥製とかそういうものではなく、血みどろになって腕や足がちぎれ、顔が潰れている、そんな凄惨な死体を。
見たことがない、というだけではない。想像することを意識が拒否している。
これから、そういうものを見なければならないのだ、と心の中で呟く。
まるで空の向こうから聞こえてくる声のように、現実味をかけらも感じなかった。
メイドの部屋は、思ったよりも豪華だった。
大きなクローゼット、大きな小物入れ。大きな映し鏡に、大きな本棚。
机とベッドはさすがに大きいとは言えないが、小さいながらも質がいいものを使っている。
そして整理された部屋のいたるところに花が飾ってあった。
正直なことを言うとメイドの部屋らしくない、と思った。
だがもちろんラーニエはメイドの部屋というものを見たことがない。
狭くて、閑散としていて、必要最低限の家具さえ壊れかけの安物をあてがわれている——というのはただの偏見なのかもしれない。わからなかった。
ともかく、そんな部屋に鎮座するラーニエの鎧は、ちょっとした置物のように見えたし、研ぎ石と共に机の上に置かれた剣は高級品といっても違和感がなかった。
メイドをベッドの上に寝かせ、自分の鎧を身につける。
「見事なものでしょう」
と、主人が言った。
表情は真面目なものだが、その声には誇らしげなものが混じっている。
「……そうですね」
事実、見事だった。
元々あった、どうしようもない傷や欠けている部分、脆くなっている部分はそのままだ。
だが、何と言っても動きやすい。
気のせいというわけではなく、それくらい丹念に手入れをしてくれたから、なのだろう。
まさか彼女もこんな形で役立つことになるとは思わなかっただろうが。
剣も手に取ってみると、これもまたよく磨かれてあるのがわかった。持ち手の部分だけ見ても、まるで新品だ。
「わたくしの現役を引退した武器や鎧、それから個人的な収集品も、すべて彼女が完璧に手入れをしてくれているのです」
「なるほど……」
感心すると同時に、申し訳なく思った。
彼女は、ラーニエが勇者だと思っているからここまでしてくれたのだ。
もしそうでないと知ったなら。
そこから先は、あまり考えたくなかった。
メイドをベッドに寝かせると、白鼬は顔の周りをちろちろと走り回り、甲高い鳴き声をあげていた。
どうやら目を覚ます気配はないが、時々顔を踏みつけたりしている。
「あのー、鼬くん、メイドさん起きちゃうから、静かにしてあげて?」
見かねて話しかけると、鼬はちらりとこちらを見て、何事もなかったかのようにきいきいと声を上げる。
言葉が通じていないのだろう。そう思わないとやっていけない。
ため息混じりに顔をあげ、主人を見る。
「メイドさんをよろしくお願いします」
すると、主人はむしろ悲しそうに笑った。
「お気をつけください。命の危険を感じたら、すぐにお逃げくださいませ」
「大丈夫です」
笑ってみせる。
嘘ではない。こちらにはケット・シーと火吹き大蛇がいる。あれくらいならなんてこともないはずだ。
だが、主人はそうは思わなかったようだった。
本当ですか、と言わんばかりの苦笑いを浮かべている。
さて、と、声にだして、気合いを入れる。
「それでは行ってきます」
悩んでいる場合ではない。
ともかく、外ではユリカと蛇が待っているのだ。これ以上待たせたら蛇の怒りが火を噴くかもしれない。
もちろんユリカは止めるだろうが、それもいつまで続くか。
屋敷の主人が頷くのを見て、部屋を出る。
その途端、付いてきたケット・シーが嫌そうに言った。
「オレになんか面倒なことさせようとしてるにゃ?」
大正解、とは口が裂けても言えない。
代わりに、笑顔を見せる。
「そろそろ、思う存分暴れたいと思わない?」
「思わないにゃ」
だろうな。
どちらかというと、今すぐにでも寝たい気分だろう。
そう思うと、とても悪いことをしているような気がしてくる。
「無理に、ついてこなくてもいいんだよ。この屋敷の中で待っていてもいいんだよ」
こんな提案をしたら、絶対ついてきてはくれないだろう。
そう思って、白状すると後悔した。
だから、にゃ? と心底嫌そうな声を上げた時は少し驚いた。
「オレにあの白チビと一緒にいろって言うのにゃ?」
「……あー」
そうだった。ケット・シーは白鼬を嫌っている。
一方的に嫌っているのか、それとも双方戦争状態なのかはわからないが、とにかく嫌っている。
同じ部屋に閉じ込められるより、めんどくさくても暴れたほうがまし。
少なくとも嫌われてはいないみたいで、それは光栄なことだ。というか、正直ほっとした。
などと思っていると「それにまだ肉をもらってないにゃ」とムスッとした声で言い出す。
やれやれ、可愛いケット・シーだ。
なんというか、ずるい。
なんだかちょっとかっこいいことを言いやがって。
しかも完全に無自覚に。
終わったらたくさん水ネズミ肉をあげよう。
そう思いながら外に出る。
憮然とした表情の蛇の前で、ユリカが笑顔を浮かべていた。
傍目から見ればおてんばなお嬢様がはしゃいでいるのを呆れながら見守る騎士のように見えるが、事実はその逆だろう。
ユリカはラーニエの姿を見るや否や少し疲れたようにため息をついた。
「遅い」
その疲れの原因が冷ややかに文句を言う。
なんとなく、世の中の真実を見せつけられているような気持ちになってくる。
ただ、確かにゆっくりしすぎた。町が危ないという時に、メイドの完璧な手入れに驚いたり、罪悪感に浸っている場合ではない。
なにせ、自分から戦うと言い出したのだから。
「ごめん。急ごう」
そう返すと、憮然とした表情のまま、蛇はふん、と唸った。
その時、轟音がした。
ゴーン、とまるで山猿が教会の鐘をついたかのような荒々しい音。
そちらを見ると、トロールが建物を踏み潰していた。
小さい頃、母が虫を踏み潰して殺したのを見たことがある。
喉が鳴った。
もしかしたら、あの中には人がいたかもしれない。
もしかしたら、あの中には水ネズミが暮らしていたかもしれない。
もしかしたら——。
「にゃー、行くか行かないかはっきりしろにゃ、腰抜け馬鹿。これだから劣等種なのにゃ」
ハッとして我に返る。
ケット・シーを見ると呑気そうにあくびをしていた。躊躇するだけの時間があるならもう一眠りさせろにゃ、とでも言いたげに。
ふう、と息を吐く。
考えてはいけない。
これから、血も、死体もたくさん見る。
そうでなければ、町は守れない。
「行こう」
言い聞かせるように、あるいは振り払うように、声を出した。
ユリカが、真面目な顔で頷いた。
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