魔王軍の侵略 1

 きいきい、と白鼬が甲高い声で鳴き叫ぶ。不思議なものだが、その声は心配しているというより怒っているように聞こえる。

 いや、そんなことよりも。

「……! 大丈夫ですか!」

 あまりに衝撃的なことすぎて、一瞬頭が正常な判断を下せなかった。

 気絶したメイドに駆け寄る。胸が上下しているのがわかった。呼吸はしている。

 顔色はカビが生えた蜜柑みたいに悪いけれど、死んではいない。

 もちろん、だからといってホッとできるわけがなかった。

 言い知れない不穏さ。

 正直なところ、信じたくなかったのだ。魔物の大群など。

 ……魔王軍の襲撃など。

 だが信じざるを得なかった。

 人間は、意外とそう簡単に気絶はしない。

 意を決して、振り返る。

 堕落した司祭のように腹が出た、この町の教会よりも大きな男の行列が、そこにはあった。

 トロール。

 本来はもっと北のほうの山奥に生息しているはずの魔物。

 レンガの柱を叩き壊すことができるほどの腕力を持ち、引き抜いた巨木を武器にする程度の知能を持つ。

 逆に言えばその程度しかないということで、大きさを考えなければ人に近い姿をしているが言葉を理解することはできず、会話は不可能。

 また非常に好戦的で出会った者すべてに戦いを挑む傾向があり、人に懐くことはないとされている。

 もちろん群れを形成することもないはずなのだが、仲良く歩いてくるのはこれが軍だからだろう。きっと、見えないだけでトロール以外の魔物もたくさんいるはずだ。

「ユリカ様、この町は危険です。逃げましょう!」

 蛇の声が聞こえた。

「そうしたほうがいいと思う」

 そういいながら向き直ると、ユリカよりも先に屋敷の主人が目に入って驚いた。

 わ、と声を上げてしまう。

 いったい、いつの間に。

「同意します。あなた方はまだお若い。他人のために自らの未来を手放す必要はありません」

 彼は、ユリカではなくラーニエを見ながら言う。

「その際に、ローゼも連れて行っていただければと」

 どちらかというとそっちが目的なのだろう。

 件のメイドを見つめていたユリカも、彼の言葉を聞いてこちらを見上げている。

 どう答えるかなど、最初から決まっていた。

「じゃあ、ユリカはそうして」

 ふう、とユリカが苦々しげな表情で息を吐いた。

 屋敷の主人は、渋い表情でこちらを見つめている。

 多分、その先、ラーニエがなんと言うかがわかったから。

「私は……戦う」

 宣言する。

 すると、屋敷の主人がとても複雑そうな顔をした。

 止めるための言葉を探しているのだろう。

 何を言ったらこの馬鹿者は考え直すだろうか、と。

 だから、先にラーニエが答える。

「この町にだって、若い人はいます。それどころか、私より小さな子供がいます。彼らの未来を見捨てることはできません」

 主人はまだ言葉を見つけられないようで、沈黙を保っている。

「それに、ここは聖都ルージャルグからそれほど離れていません。ここを落とされたら——聖都を攻める拠点にされてしまうかも」

 結局、こんなのはただの我儘だということはよくわかる。

 剣もまともに振るえず、かといって魔法も弱い電撃で相手を驚かすくらいしかできない人間が一人増えたところで、きっとこの状況はひっくり返らない。

 そう、ラーニエ一人がどうあがいても川の流れを逆にすることはできないように。

 むしろ、下手をしたら足手まといですらあるかもしれない。

 それでも、逃げて後悔するより、いい。

 とても醜い、自己中心的発想。

 本物の勇者なら、こんなことは考えないのだろう。

 そもそも、こんなふうに取り返しのつかないことになる前に気づいてなんとかしているかもしれない。

 潜入、不意打ち、陽動、事前準備。

 先手を取ることの重要さは、学校でもよく教わった。

 先手を取られることの愚かさも。

 でも、ラーニエはもう、勇者ではないのだ。

 それに、起きてしまったことは仕方がない。

 悔やんでいる暇はなく、かといって逃げ出すだけの勇気もない。

 なら、戦うしかない。

「蛇、二人をよろしく」

 笑いかけると、蛇は「お前に言われるまでもない」と冷たい声で返してきた。

 だろうな、と思った時、ユリカが「いえ」と呟いた。

「あたしも、残ります」

 なっ、と声を出していた。

「ユリカ、ダメだよ!」

「その通りです、主。危険です!」

 珍しく、蛇と意見が一致する。

 ユリカは勇者ではない。勇者だったこともない。

 むしろ教会には恨みを感じているはずだし、聖都ルージャルグが滅んでも何も感じないだろう。

 この町のために、危険にさらされる義理はない。

「それでも、戦いたいんです。——蛇」

 と、ユリカに見つめられて蛇は黙り込む。

 蛇はユリカの命令には逆らわない。

 どんな時でも。

 わかっていても、口を出さずにはいられない。

「でもユリカ、魔物の大軍だよ? 本当に危ないんだよ?」

「主は戦うと仰った。我が守りきれば良いことだ」

 なんとなくそう言うだろうとは思った。

「あんた、さっきと言ってることが真逆だよ……」

 だが、さすがに手のひらの回転の速さに驚いてしまう。

 ……もちろん、蛇に手のひらは存在しないが。

「何か言ったか?」

 蛇にぎろりと睨まれ、いや何も、ともごもごと答える。

 こいつめ。

 ともかくユリカはこれ以上何を言ったところで聞く耳を持たないだろうし、蛇は命にかえてでもユリカに従うはず。

 止める言葉を投げかけはしたが、正直にいうとこの一人と一匹がいっしょに戦ってくれるというのは心強い。

 非常に、心強い。

 なにせ、魔物使いの彼女が連れているのは、あの火吹き大蛇なのだから。

 本気で暴れさせればトロールの二匹や三匹、敵ではないだろう。

 あとは、だ。

「ふにゃぁ……なんだか騒がしいにゃ……肉は買ってきたにゃ?」

 ケット・シーがとろとろと歩いてくる。

 メイドは倒れているし、白鼬はぱたぱたと走り回っているし、色々とおかしな状況のはずなのだが、大して気にしていないらしい。

 というか、肉を買うのを忘れていた。

 仕方がない。買える状況ではなかったのだ。

 この大騒ぎの中、わざわざ肉屋に行ってネズミ肉を六枚頼む人間はいないし、そんな頭のおかしい人に肉を売ってもくれないだろう。

 それに、そんなことをしていたら蛇が火を噴いていた。

 いろいろと隠すために、強引に話を変える。

「あんたはどうする?」

「にゃ?」

 案の定、意味がわからないという声をあげた。

「私といっしょに来る?」

 ラーニエがさらに畳み掛けると、ケット・シーは眠そうにあくびをした。

「当たり前だにゃ?」

 意外と、にいっしょにいることを当たり前のことだと認識していたのか。

 なんというか、少し嬉しい。

「じゃあ、決まりだね」

 そう笑いかけて顔を上げる。

 屋敷の主人が諦めたように肩をすくめた。

 ラーニエは、逆に意識して顔を引き締める。

「まずはメイドさんを部屋に運びましょう。外は危険です。それから、私の鎧と剣はどこにありますか?」

 どっちも安物の、初心者用装備だ。

 それでも、何もないよりずっといい。

「ローゼの部屋にあるはずです」

 主人が笑みすら浮かべて答える。

 ラーニエの足元でぼんやりと辺りを見回していたケット・シーが、

「……なんだか悪いことを考えてないにゃ?」

 と呟いた。

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