メイドと町人の話 8
蛇はどこだ、と探すまでもなかった。
昔から聖都ルージャルグの教会を呑むと恐れられていたほどの大きさなのだ。この小さな町で見つけられないはずがない。
教会を出て、怒号と悲鳴に顔を上げてすぐ、黒く禍々しい姿が目に入った。
なんだあいつは、とか、火吹き大蛇だ、とか叫びながら逃げ惑う人々に目もくれず、首を左右に振っている。
多分、ユリカかラーニエを探しているのだろう。
とりあえず、まだ被害は出ていないらしい。正直なところ、安堵した。
火吹き大蛇が原因でこの町と敵対することになるのだけは避けたい。
興奮状態の彼は、まさしく『火種』だ。燃え上がる前に鎮めておかなければならない。
ラーニエは目の前で人が焼き殺された瞬間を思い出し、恐怖のままに走り出した。
蛇を目指し、逃げる人々の中を逆走する。
先に声をかけたのは蛇の方だった。
「おい、猫女!」
「猫女?」
とんでもない言われようだ。
いったいどうした。少し離れている間にケット・シー病でも移ったか。
というか、そんなのを人前で、しかも大声で怒鳴るな。
もちろん、ラーニエの抗議は聞き入れてくれなかった。
あるいはそもそも聞こえなかったのかもしれない。ラーニエと蛇の間には、家が三軒と道が二本の距離がある。
「答えろ、ユリカ様はどこだ!」
やはり、並々ならぬ何かがあったのだ。
「どうかしたの!」
喧騒と距離に負けないように、こちらも怒鳴る。
怒鳴り返された。
「答えろ!」
即座に諦めることにした。
声を聞けばわかる。まるで、噴火前の地響きみたいだ。
「大きな屋敷にいる!」
幸い、この町であの屋敷以上に大きく立派な建物はない。
実際、その言葉だけで十分だったらしかった。
「承知した! なぜユリカ様の元を離れた!」
言い返そうとしたが、なんとか思い留まる。
「ごめん!」
そんなことをすれば蛇の怒りに火をつけかねない。
それに、言われてみればその通りだ。朝から晩までべったりくっついてはいられない、とはいえ、ラーニエは蛇からユリカを頼まれた身なのだから。
結果的に、謝罪するという行動は正解だったらしい。
ギロリと睨みつけられただけで何もせず、猛烈な勢いで巨大な蛇の頭が遠ざかっていく。
ラーニエに怒りをぶちまけるより、ユリカを選んだようだった。騎士精神旺盛の蛇らしい。
ふう、と息をつくと、周りの人たちが怪訝そうにこちらを見つめているのに気がついた。
「あ……えっと、すみません。あの子、私の知り合いなんです」
しん、と痛いほど静まり返る町。
疑念という名の濃厚な沈黙が重くのしかかる。
「お、お……」
頭の中が空っぽになった。
さまざまな言い訳が頭の中を素通りしていく。だが、その尻尾を掴むことはついにできず、結局。
「お騒がせしました!」
ラーニエは勢いよく頭を下げて、逃げるように町を馳けた。
突如猛然と動き出した蛇にまた、人々は悲鳴をあげて泣き叫ぶ。
これだけの騒ぎになっていて、蛇を攻撃する人の姿は見えない。
いや、もちろん兵士はいる。だが、顔を青くして、しかし剣は鞘に入れたままだ。
おそらく、司祭が手を回してくれたのだろう。
その証拠に、彼らは皆一様にしてラーニエをさまざまな表情で注視してくる。
不安そうな者、あからさまに嫌な表情を見せる者。
この町の教会の力は強いらしい。
神のご威光に感謝しながら、屋敷へと走る。
懸命に、息が切れるほど全力だったのに、先に着いたのは蛇の方だった。
距離の問題というより、体の大きさの差なのだろう。
「ユリカ様! ユリカ様はおられますか!」
ノックするという人間の文化を知らない蛇は、扉の前で気でも違ったかのように叫んでいた。
これでは恐ろしくて開くものも開かない。
もっとも、知っていたとしても蛇には戸を叩く手がないし、仮にあったとしても従わなかっただろうが。
それくらい、切羽詰まっているように見えた。
「蛇、落ち着いて……」
絶え絶えの息の合間に、声を絞り出す。
「遅い」
返ってきたのは、そんな血も涙もない言葉だった。
予想に反して、扉は開く。
ゆっくりと、警戒するように。
中から出てきたのは、メイドだった。
頭の上にはあの白鼬が乗っかっている。
「ユリカ様はどこだ!」
威嚇するように、蛇がシャーッ、と声を出した。
メイドは答えない。
代わりに、その背後からひょいとユリカが顔をのぞかせた。
「どうしたの、蛇」
彼女がそう口にした途端、蛇の昂ぶっていた感情に火がついたようだった。
「ユリカ様! 今すぐこの町から逃げましょう!」
「……え?」
あまりにも唐突な言葉に小さく声を出してしまう。
どうも聴覚も昂ぶっているようで、即座に睨まれた。
だが、意味がわからない、と思っているのはユリカも同じだったらしい。
「えっと、どうして?」
「説明は後です!」
蛇がそう叫ぶと、珍しく、ユリカが強い口調になった。
「いいえ、あとじゃだめよ。今、説明して」
これも珍しいことだが、穏和な彼女が目を細め、蛇を睨んでいる。
そして蛇は、彼女の命令には絶対に逆らわない。
焦りをにじませた沈黙と睨み合いが続いたが、結局、根負けしたのは蛇の方だった。
「……魔物の大群が、攻めてきます」
正直に言うと、それが何を意味するのか、一瞬わからなかった。
言葉がうまく理解できなかったのだ。
「——ッ!」
だが、空気は変わった。
その正体はメイドだった。
目を見開き、血の気が引いたように顔が青い。
少し、震えているようにすら思える。
それでというわけではないだろうが、少しずつ、頭が回るようになった。
魔物の大群が攻めてくる。
つまり?
「まさか、魔王軍?」
口に出す。
すると、妙な現実味を感じた。
よくできたりんごの絵を、本物だと勘違いしてしまう感覚に近い。
激しい違和感に、ほんの少し目眩がした。
つい昨日まで何もなかったのだ。
ユリカの看病をして、白鼬とケット・シーが喧嘩して、この町の人によるメイドの扱いに激怒して。
本当に、何もなかった。
魔王軍なんかがやってくる気配など、微塵もなかった。
お金に困って役場へ向かおうとしたら、今は仕事はないと思う、と屋敷の主人に止められたくらいなのだ。
だが、悪い空気は変わることはなく、現実は非情だった。
ずっと背後で、轟音が起こった。
何かが爆発したような音だと思ったが、ひょっとしたら何かが壊れる音だったのかもしれない。
音は遠いが、確認しようと思えばできる。
何か根拠があるわけではないが、なぜだかそれがわかる。
しかし、振り返ることはできなかった。
背筋が凍り、後ろを向くという行動を体が拒否している。
蛇が渋い声で、怒ったように答える。
「おそらくは」
ガタン、と大きな音がした。
「あ、あ、ああ……」
見ると、メイドが尻餅をついていた。
いよいよもって蒼白な顔色、焦点の合わないその目には涙すら浮かんでいる。
呼吸は浅く、ほとんどできていないに等しい。
純粋な驚きとか、不安では言い表せない怯え方。
何か言わなければ。そう思って口を開く。
「お、おねえ、ちゃ……」
だがその直後、呪文のような言葉を小さく呟くと、そのまま糸が切れた人形のように白目を剥いて倒れてしまった。
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