メイドと町人の話 6
聖都ルージャルグがそうだったように、町の中心部にその教会はあった。
建物そのものはそこまで豪華なものではない。ルージャルグの教会には遠く及ばず、ラーニエが厄介になっているあの屋敷よりも小さいくらいだ。
だが、とても大事にされているのは一目でわかった。
煉瓦造りの建物であるにもかかわらず苔はどこにも見当たらず、教会の紋章はまるで数日前にできたばかりかのように美しく手入れされてあった。
ごくり、と唾を飲む。
しかし、それでもこの町の人は他人に偏見を持ち、あまつさえ石を投げる人々なのだ。
昔から、天使に化ける悪魔の話は耳にする。
綺麗な薔薇には棘があり、美しい吹雪の王鹿はひと蹴りで人を殺すことができるのだ。
外見だけで、全てを判断してはならない。
大切なのは、きちんと神の教えが伝わっているのかどうか。
息を吐いて、気を引き締める。
木製の扉を開き、町の人々と同じように中へと入った。
その途端、さまざまな声がラーニエを襲った。
「おお、勇者様も来られましたか!」
「ああ、あなたがあの噂の」
と、直接話しかけてくる人はまだいい。
こちらを純粋な瞳でじっと見つめる人、嬉しそうにひそひそ話をする人。
中には息子と思われる小さな子供の肩を叩き、
「よく見ておきなさい、あれがルージャルグ神学校の卒業予備生、勇者様の姿よ」
と囁く女性もいた。
そういう反応に対し、その通り、この私こそ勇者様だ、と図に乗れるほど度胸があればよかったのだが。
正直、キツい。
聖都ルージャルグにいた時は教会に行ったからといって大騒ぎになることはまずなかった。教会に神学校の生徒や勇者がいるのは当たり前のことだからだ。
ましてや、礼拝の日なのだ。むしろいない方が騒ぎになった。
でも、今は逆。
愛想笑いに疲れ、今すぐ逃げ出したい。
人という人に恐怖を覚え、思わず『神よ、どうかお守りください』と心の中で唱えてしまう。
それで神の加護が目に見える形で現れれば精神も安定するのだろうが、もちろんそんなはずはない。
外見だけで、全てを判断してはならない。
むしろ、神はそんなことを考えた愚か者に罰を与えることにしたようだった。
「今日は勇者様がお越しですので、勇者様の御言葉を聞きましょう」
礼拝の途中で司祭がそんなことを言い出したのだ。
「えっ!」
と、反射的に声を出してしまう。
頭がその全ての機能を停止する。
首筋から爪先に至るまで、身体中が凍りついた。
人々の目が一斉にこちらを向き、素晴らしい言葉を期待しているのがよくわかる。
同時に、これが神の与えた試練であることもよくわかった。
今の自分は、実際はどうあれ彼らにとっては勇者。
その言葉は強く、昨日感じた憤慨をぶつければ一瞬で目的は果たされる。
絶好の好機。
よくわかっている。
ユリカを助ける時は、できた。
群衆の中心に飛び込んで、叫ぶことができた。
そう、あの時のようにやればいい。
まさしく、その通り。
だが、不安という自分中心的な考えと期待の目に挟まれ、
「わ、私は……その、未だ修行の身ですので、皆様に神の教えを伝えるほどの言葉は持っておりません……」
ラーニエはその試練から逃げ出してしまった。
自身の未熟さを乗り越えられなかった罪は重い。
司祭が拍子抜けしたように「そうですか」と言って他愛もない説教をしている間、ずっと自責の念にかられていた。
説教はそこまで時間もかからなかったと思う。
ひょっとしたら後悔のし過ぎで時間が早く感じただけなのかもしれない。
よくわからない。窓から漏れてくる光は天国のそれのように淡く、それだけでは今の時間を推し量ることは難しかった。
正直、内容もよく覚えていなかった。それくらいつまらない話だったからというより、聞いていなかったからだ。
途中一回も笑い声が起こらなかったところを見ると、少なくとも面白い話ではなかったようだが。
それから慣れ親しんだ賛美歌を三曲ほど神に捧げ、礼拝は終わった。
一息ついて悶々とした思いに浸るのは難しかった。むしろ、そこからの方が大変だったからだ。
礼拝の時間が神に捧げる聖なる一時であるならば、そのあとは人間の個人的な時間だ。
こうして、町の人々が集まる機会は少ない。だからこそ、共にパンを食べて話に花を咲かせるのだ。聖都ルージャルグがそうだったように、この町も変わりはないらしい。
つまり、町の社交場。
それは一ヶ月に及ぶ断食のあとの司祭のように、世俗的。
問題は、一番人気がラーニエだということだ。
押し寄せる人、人、人。
一瞬で波になり、口々に思い思いのことを叫び始める。
やれ握手してくれだの、やれお話ししたいことがあるだの。
中には「結婚してください」と叫んだ者もいて、見るといかにも冴えない痩せた男が目を輝かせていた。外見も悪くないし、顔も見るも耐えないというほどではない。多分中身が美しければ結婚もできていただろう。
そうではないということは推して知るべしだ。
もっとも、ラーニエだって人のことは言えない。
すでに勇者ではないのにこの人混みの中心にいるというのもそうだし、今すぐに自分は勇者ではないと叫んで逃げ出したい気持ちになっているのもそう。
泣きたくなってくる。
自分がこんなにも足りない人間なのかと思い知らされる。
「勇者様はやっぱり魔王を倒すの?」
倒せるわけないだろう。
だが、いかにも蝶よ花よで暮らしていそうな女の子の、キラキラと輝く目を見たらそんな風にはとても言えなかった。
「うん……そうだよ」
おおー、とざわめきが起こる。
神よ、未熟な私をお許しください。
もちろん、返事はなかった。
てんやわんやの社交会場で人の対応を泣きそうになりながら流す。必死すぎてどれくらいそうしていたのかはわからない。随分長い時間だったように思うが、案外そうでもないかもしれない。
ともかく、永遠というものは存在しない。始まりがあれば終わりもある。
ようやく人の波は収まりをみせた。
というより、人そのものが少なくなっていた。皆家庭がある。教会は素晴らしい場所だが、いつまでもいるわけにはいかない。
それに、ユリカのように中には教会が合わないと感じている人もいるだろう。
社交場は店じまい。
気づけばそれなりの量用意されてあったパンもなくなっている。
食べ損ねた、と思った瞬間ぐう、と腹の虫が鳴った。
余計なことは考えないほうがいい。
ふう、とため息をつくと、
「大変でしたね」
と司祭が話しかけてきた。
「ええ……かなり、驚きました」
と素直に返す。
愛想笑いがうまくできているかどうかわからないほど、疲れていた。
「お許しくださいませ。珍しいのですよ、森を越えず、こちらの方にお越しいただける勇者様は」
司祭は苦笑している。つまり自分は今そういう顔をしているのだろう。
「なるほど」
たしかに少ないだろう、とラーニエは思った。
聖都ルージャルグを出てすぐの森を抜ければ、また都会が広がっている。治安が良いことも聞き及んでいるし、何より融通が利く。
勇者がたくさん向かうので、宿代や食事代を多少安くしてくれる店もあるらしい。
ラーニエだって、ユリカ——というより蛇——に出会わなければその街に向かう予定だった。
無論、もう少し強くなってから、などと甘く考えていたので、結局行くことはなかったかもしれない。
クス、と老齢の司祭が笑った。
「立ち話もなんですから。どうぞこちらへ」
断る理由はなかった。
というより、彼はラーニエの答えを聞くこともなく歩き始めていたし、そもそもここに来た当初の理由はこの司祭と話をすることだったのだ。
黙ってついて行くことにした。
礼拝室を出て、階段で二階に上がる。
薄暗い通路に、いくつかの小部屋が見受けられた。
「ここは、わたくしの書斎です」
通されたのは、狭い部屋だった。ただでさえそこまで広くないのに、両側の壁には本棚が設置されていて圧迫感を感じる。聖典に関する本が所狭しと収納されてあるので、より息苦しく思えた。
それらに挟まれるように、机が置いてあった。机自体は質素だが、羽ペンは良質そうだった。
だがそれ以上に、その乱雑具合が目を引いた。
書類と思われる紙が数枚なんとなく右端に寄せてあり、代わりに神に関する書物が四冊、机を占領していた。うち二冊はちょうど真ん中あたりで開きっぱなしになっていて、余計場所を取っていた。
おそらく、今日の説教をどうするか考えていたのだろう。髪も少なくなった頭を抱え、悩む姿が目に浮かんだ。
「失礼、お恥ずかしながら片付けが苦手なもので」
司祭が苦笑した。それで、ラーニエも笑う。
「気になさらないでください。自慢ではないのですが、私も掃除と片付けは苦手でして」
あと、料理と剣技と魔法も。心の中で付け加える。自慢ではないというか、自慢できることがない。
あの、生意気なケット・シーと一緒にい続けられる。これは自慢にしてもいいかもしれない。
こちらにお掛けください、と出された本棚のとなりにあった丸椅子に座る。
少し歪な座り心地だった。多分、普段はこれを踏み台にしているのだろう。その証拠に彼は机の裏にちゃんとした椅子を持っていた。
さて、と、一息入れてから彼は切り出した。
「勇者様から見て……この町はどんな印象ですかね?」
いきなり、きた。
ええっと、と言葉を考える。
「悪くは、ないと思います。ただ」
頭を整理するために、ここで一度区切った。
だが、なかなか正しい言葉というものが浮かばなかった。
「ただ?」
と、司祭が促す。
そもそも、怒りや憤りを冷静な言葉にするのは不可能なことなのかもしれない。
「ただ、そのう……神の教えが正しく行き渡っていない、と感じました」
ほう、と司祭が笑みを消す。
その瞳に真剣なものを感じて、さらに言葉を重ねた。この人は、きちんと聞いてくれている。
「例えば、皆さんどうして画家のメイドに辛く当たるのでしょうか。『罪人に石を投げろ』などと間違った聖句を使って石を投げる子供までいました」
言葉をぶつけて、返ってくる音を待つ。
深い井戸に石を投げ入れるように、しずかに、じっと待ちつづける。
返ってきたのは、ふう、というため息だった。
「やはり勇者様はご存じなかったのですね。あれがアムスラント人だからですよ」
そうではない。そういうことではない。
「……知ってます」
答えると、彼は虚を突かれたような顔をした。
「昔は異教徒の国だったということも。ですが、今は改宗して神の教えに従っているはずです。彼女がアムスラント人だからといって迫害される理由はありません」
正直にいうと、言い負かした、という驕りがあったのは否定できない。
なにせ、ぽかんとした表情の彼が「なるほど」と頷き、
「意外と……ご存じないのですね」
と言い出した時、自分でもわかるくらいに動揺して、黙り込んでしまったのだから。
「いえ、責めているわけではありません。わたくしも神の教えを御教授頂いている時に眠気に襲われることは幾度もありますから」
授業中に寝ていただろう、ということだ。
ただ、そんなはずはない、と思う。もちろん、絶対の自信があるわけではないけれど。
学校で出てきたアムスラントという国の歴史は、それだけだったはず。何を、知らないというのか。
「あの国は、三年ほど前に滅びましたよ。例の、魔王によって。神を信じていなかったことは明らかです」
えっ、と思わず声を上げる。
初耳だ。完璧に。
「その証拠に——あの国の国王は、勇者様を殺したのですから」
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