メイドと町人の話 4
ユリカの寝室——正確には、屋敷の主人の部屋——のベッドの隣で椅子に腰掛け、ラーニエはユリカの寝顔を眺めていた。
窓から入ってくる夕暮れの光が、整ったユリカの顔をより引き立てている。
ゴロゴロ、という微かな音は、ラーニエに腹を撫でられているケット・シーが出しているもの。
そんなある意味幻想的といえる時間の中、ラーニエの表情は憮然としていた。
ケット・シーの腹を触る手の動きも、撫でるというより弄り回すというほうが正しい。
実際、撫でろと要求されたので撫でているが、意識は全く別のところにあった。
「こんなの、間違ってる!」
不意に、ラーニエが声をあら上げる。
「にゃー?」
喉を鳴らすのをやめ、だが相変わらず夢の中にいるかのような、浮かれた声でケット・シーが鳴く。
「この町の人たちはみんな、聖典の勉強が必要だよ。なんだってあんな……適当なことを」
教会は何をやってるのさ、と憤る。
ふにゃあ、とケット・シーはつまらなさそうにあくびをした。
実際には、つまらないのではなくわからないのだろう。
前提となる話を知らないで、いきなりこんなことを言いだされたら、ラーニエだって困惑する。だがどうでもよかった。
「だいたい、何が『罪人に石を投げろ』よ。それを言うなら『罪人でないものだけが石を投げよ』でしょ? 意味全然違うし!」
正直なところ、ラーニエも何に一番憤っているのかわからない状態だった。
教会の教えを正しく守っていない町民か、それともメイドに対する非難そのものなのか、そうでなければ蔑まれることを止めようとしないメイドに対してか。
あるいは、自分自身に対する怒りなのかもしれない。
護衛を命じられながらメイドを守ることができなかったり、怒って知らない子供に手を上げようとしたりする、弱い自分。それが嫌なのかもしれない。
いずれにせよ、こうしてケット・シーの毛並みをぐしゃぐしゃにしながら愚痴を続けてどうにかなるものではない、ということは確かだ。
「ああ、もう!」
わかっていても、どうすることもできない。
怒りに任せて軽く手を振り下ろす。
その先にあったのは柔らかい、ケット・シーのお腹。
「しゃーっ!」
瞬間、痛みと同時にラーニエの意識は現実へと引き戻された。
「お夕食をお持ちいたしました」
同時に、コンコン、と扉を叩かれる。
「あ、ありがとうございます!」
ほとんど反射的に答えていた。
きい、とワゴンを押しながらメイドが入ってくる。
笑顔で腕の痛みを隠せたかどうかはわからない。
こちらを見て苦笑したので、多分隠せていないのだろう。
ただ、ラーニエがぎこちなく黙り込んだのは、怒ったケット・シーに全力で引っ掻かれたからだけではない。
実のところ、二人の間には微妙な距離感ができていた。
溝、というほど大げさなものではない。
言ってしまえば、ただ単に居心地が悪いだけ。
そもそも、そう思っているのはラーニエだけなのかもしれない。
実際メイドの立ち振る舞いは普段と変わらないように見える。
一方で、そんなはずはない、とも思う。
自分の悪評を知人に知られることほど、辛くて嫌なことはないのだから。
などと思っていると、にゃー、と声をあらあげたケット・シーがワゴンへと走っていった。
「うまそうにゃー、フリフリ女、早くくれにゃー」
止める暇もなかった。
「フリフリ……女?」
メイドが動きを止めて眉をひそめる。
その瞬間思ったのは、やってしまった、ということ。
「あ、いえ! お、お気になさらず!」
慌ててケット・シーを捕まえる。
「にゃー、何するにゃ!」
じたばたと暴れだした小さな魔物に「お行儀が悪い」と諫言する。
クスリと笑ったメイドは「ローゼでよろしいですよ」とケット・シーにウインクをする。そんなこともできたのかと少し驚いた。
ついでと言わんばかりに獣用の皿を床に置く。
「にゃー!」
途端にケット・シーが大暴れしはじめた。メイドの名前なんてどうでもいいのだろう。それよりも、ご飯の方が大事。ケット・シーらしい。
いや、ケット・シーだからといより、ラーニエの躾がなっていないから、というべきかもしれない。
そう思って「すみません」と謝る。
「いえ、大丈夫です、気にしておりませんので」
メイドが、今度はラーニエと目を合わせながらそう言った。
「可愛いですね」
そして、にっこりと笑う。
多分、彼女なりの気遣いなのだと思う。
だが、答えたのはラーニエではなくケット・シーだった。
「当たり前にゃ、オレは猫だからにゃ〜」
「猫?」
と、事情を知らないメイドが首をかしげる。
「私のケット・シー、猫だと思ってるんです」
ため息混じりにそう言うと、
「オレは猫にゃぁ!」
とケット・シーがこちらを睨みつける。
ラーニエはそれを無視して、メイドを見ながら肩を落とす。
「なるほど」
とメイドは笑顔で頷いた。
そしてケット・シーと目を合わせる。
「お猫様、どうぞごゆっくり」
言われた方はムッとした表情で黙っている。
おそらくメイドはわかっていないが、猫やケット・シーは目を合わせることを嫌う。
嫌うというより、それは戦いの合図なのだ。
これが本当に猫なら今頃本格的な喧嘩になっているはず。
けれどケット・シーは人の言葉を理解するほど知能が高い。
明らかに喧嘩をふっかけているわけではない態度に困惑しているのだろう。
あるいは、ただ単にきちんと猫と呼ばれたことに照れているだけかもしれない。
「ふんっ!」
と、ケット・シーは鼻を鳴らした。
「そんなことより、早く下ろすにゃ!」
どうやら、本能よりも空腹を優先させることにしたらしい。
まったく。
要望通り下ろしてあげると、皿に飛びついてがっつき始める。
持ってきてくれたメイドにお礼すら言わない。ひょっとしたら、お礼という概念を知らないのかもしれない。
「ありがとうございます」
だから、代わりにラーニエがお礼を言うことになる。
「どういたしまして」
笑顔で返して、ワゴンの方を見る。
釣られてラーニエもそちらを見ると、シチューが二皿、湯気を立てながら乗っていた。お昼のものだろう。美味しそうだ。
「——ラーニエ様も、どうぞ。ユリカ様は……」
てきぱきと動く彼女を見ながら、やはり間違っている、と思った。
これだけいい子が、非難されていいはずがない、と。
「起きたら、私が食べさせます」
そう言うと、承知いたしました、と彼女は頷いた。
二つの皿をテーブルの上に並べ「ごゆっくりどうぞ」と常套句を述べる。
メイドが優雅にお辞儀をして部屋を出て行った後も、しばらくラーニエは食事に手をつけなかった。
いや、それどころか、見てすらもいなかった。
正義を胸に、悪と戦うのが勇者。
「……」
唇を噛む。
ラーニエはもう、勇者ではない。だからそんなことはしなくてもいい。
わかっている。
けれど。
「明日、教会に行こう」
誰に言うでもなく、決意を口に出す。
こんな状況、見て見ぬ振りなどできなかった。
おそらくこれが自分の性分なのだろう、と思う。
「にゃ?」
と綺麗になった皿をペロペロと舐めていたケット・シーが、間抜けな声をあげてこちらを振り向いた。
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