白鼬とメイドの話 6
「風邪ですね」
と不安げなユリカの体をじっくりと触っていた医者が言った。
男が女性の体を触れば変態だが、医者ならそれが許される。
診察の様子を見ながら、少し不思議に思った。
「本当ですか?」
別に疑っているわけではないが、確認のために尋ねる。
だが当然、医者が嘘をつく理由はなく。
「はい。大きな病の気はありませんでした」
そう言われて初めて心底安心した。
ユリカ自身も、ほっとしているようで笑みを見せる。
「よかった……」
独り言ちると医者が眉をひそめた。
「いえいえ、風邪だからと言って安心してはいけません。世の中には風邪で死ぬ人もいるのです。それも結構な数」
「……」
ぎょっとして黙り込んでしまう。
ちらりと屋敷の主人を見ると、その通り、と言わんばかりに頷いていた。
ユリカも不安そうな表情に逆戻りしている。
今重大な話をしているのだけれど、とため息をつく。
「とにかく、栄養と休息、それから水を飲むことですな」
水、と無意識に口に出す。
盲点だった。そういえばここ数日、水はほとんど飲んでいないような気がする。
「ええ、そうです。山の恵みです」
山、と呟いてから、そういえば山から流れてくる川があったな、と思い出す。
まるで町を迂回するように流れていた川。多分、それのことを言っているのだろう。
「その通りですね。ローゼに持って来させましょう」
主人の言葉に、ローゼって誰だっけ、と一瞬考え込む。
メイドのことだ、と思い至ったところで、あっ、と声を上げてしまった。
「どうかしましたか?」
不思議そうな表情をする主人がこちらを見る。
相手は自分なんかよりもとても位の高い人。
そう思うと冷や汗が噴き出た。
「あ、いえ、そのう、メイドさん——ローゼさんは、多分今取り込み中かと……」
もごもごと答える。無礼のないように、と考えれば考えるほど口が動かなくなっていくのがわかった。
ああ、と主人は苦笑する。
「またですか……困った鼬だ」
本当にいつものことなのだろう。
ラーニエもユリカもそうだが、魔物と一緒にいると気苦労が絶えない。
もっとも、それでも一緒にいたいと思ってしまうその理由も、よくわかる。
かわいいというのは、すべての欠点を覆い尽くすものなのだ。
「そういえば、あのおっちょこちょいのメイドを今日は見てないね」
どうやら医者は鼬のことを知らない様子。
嫌なことを考えてしまったと言わんばかりに顔をしかめている。
いや、実際そう思っているのだろう。
「あんな子辞めさせてしまえばいいのに」
そんなことを堂々と言うのだから。
空気が悪くなる。それを肌で感じる。
鉛のように、重くなったと言うべきか。
だが、当の主人はにこやかだった。
「あれはあれで、いい子なんですよ」
「そうなのかねえ」
少しの間、沈黙が生まれた。嫌な静けさだ。
耐えられなくなったのは、医者だった。
「それでは、わたくしはこれで失礼いたします。お代は……」
そう言って、こちらを見る。
ラーニエはといえば。
「あ……」
当然そんなお金はない。何せ自分の鎧すら新調できないくらいなのだ。
「私が出します」
そう言ったのは主人だった。
「えっ」
思わず主人の顔を見た。
相変わらず温和な表情。だがここまで良くしてもらうと、かえってそれが不気味に思えてくる。
「いいのですよ。私は見た目通り、お金持ちですから」
はあ、と呟く。
どちらにしろラーニエはお金を持っていないわけで、この好意に甘えるしかない。
どんな魂胆かわからないのは怖いが、それ以上に目前のお金を支払えないことの方が現実的な分、怖い。
「ありがとうございます……」
だからラーニエとしては、そう答えるより他はなかった。
ラーニエの鎧よりも高いお金を受け取り、医者は屋敷を後にしていった。
ラーニエ、ユリカ、そして主人の三人になったところで、ふと思い出す。
「あ、あのう」
とても言いにくいことだが、言わないわけにはいかない。
主人が「はい」とこちらを見る。
優しそうな表情だから、余計に言いづらい。
「私のケット・シーがベッドに毛を落としていっちゃって……すみません」
ああ、言ってしまった。
主人の表情を伺う。
きょとんとした彼は、やがて「ああ」と笑った。
「気にしないでください。あとでローゼに掃除させましょう」
「そうですか……」
意外と怒られなかったことに拍子抜けしたと同時に、あのメイドも忙しいな、と思った。
もっともメイドは忙しいものなのかもしれない。
それに対して、とラーニエは心の中でため息をつく。
今の自分はまさに『何もしていない』状態だ。まるで猫のように。
もちろん本当に猫であればそれでいいのだろうが、人間となると話は変わってくる。
勇者になりたいと思いながら今まで頑張ってきた。
それが突然抜け落ちると、本当に何もすることがない。
何をすればいいのかもわからないし、これからどうすればいいのかもわからない。
知らず、唇を噛む。
何かを始めなければ。でも何を。
いや、わかっている。正確にはやる気が出ないのだ。
勇者になりたいという気持ちはまだ強く残っていて、それ以外のことをやりたという気持ちが全く起きない。
仕方がない、といえばそう。
それ以外のことは考えたこともなかったのだから。
キイ、とそっと扉が開く音がした。
仄かに美味しいシチューの香りが入り込む。
「もう、行かれましたか」
そちらを見ると、メイドが顔をのぞかせていた。
「ああ、行ったよ」
主人が少し顔をしかめる。
やはり、あの医者の話は彼にとっても気持ちのいいものではなかったのだろう。
そんな事実を知らないメイドは、
「お迎えとお見送りできずに申し訳ございませんでした」
などと言いながら頭を下げている。
「いや、いいんだ。それよりローゼ、水を持ってきなさい。それから、お客様はしばらくここで滞在していくことになったから、お部屋の案内を。一回の部屋がいいだろう」
主人の指示に、メイドは即座に「承知いたしました」とお辞儀をする。
承知いたしていないのはラーニエの方だ。
「いいんですか?」
声を上げると、主人は「シー」と口に人差し指を当てた。
いつのまにか、ユリカが寝息を立てている。
「あ、ごめんなさい」
つい謝罪をしてから、無意味であることに気づく。
というか、主人に謝っても仕方がない。
その主人は、わかればよろしいというように頷いて、口を開いた。
「何がですか?」
質問されて、そういえばと話を元に戻す。
「あの、本当に泊まっていっていいんですか?」
確かに、そうさせてもらえるとありがたい。
でもいきなりのことだったし、そんな話は一回もしていない。
その上こちらは診察料まで代わりに支払ってもらった身なのだ。
驚くなという方が無理がある。
「ええ、もちろん」
だが主人はむしろ当然のことのように言った。
「それとも、すでに宿が決まっておりましたかな」
「いえ、そういうことは、ないんですけど……」
やはり、いい人すぎて身が縮む思いだ。
本当に厄介になってしまっていいのか。
「なら、どうぞ遠慮なく泊まっていってください。これだけ広い屋敷にいつもメイドと二人きりなのです。金持ちジジイの道楽だと思ってくださいませ」
にっこりと笑った主人につられて苦笑する。
金持ちジジイの道楽。
そうまで言われてしまったら、いくら優柔不断なラーニエも「わかりました」と頷かざるを得なかった。
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