白鼬とメイドの話 5
生まれてこの方、ワゴンを押したことなんて一回もない。
ましてや、食器が乗ったワゴンなど。
少し歩くごとに厨房の惨状が脳裏によぎる。
少し転んだら大惨事。そう思うと息が苦しくなる。
もちろん意識なんてしてはいけない。意識をすれば返ってその通りになってしまう。
それはわかっているのだが。
シチューがかすかに揺れるのを見ながら、これがひっくり返ったらどうしよう、などと考えてしまう。
もっと恐ろしいのは、ここであの白鼬とばったり出会ってしまうことだ。
廊下には高そうなカーペットが敷かれ、骨董品が立ち並んでいる。
ここで暴れられたら……考えたくもない。
ああ、いや、まずは自分が転ばないことを考えよう。
息を整えて、ワゴンを押し進む。
慎重に、慎重に。
ゆっくりと歩き続ける。
幸運にも、あの鼬には出会わなかった。
読めないプレートがかかった扉を見たとき、ものすごくほっとした。
扉を開ける。
「ユリカー……?」
そっと名前を呼ぶと、ベッドがもぞもぞと動いた。
虚ろな顔を、こちらに向けてくる。
「起きてたんだ」
声をかけると、彼女はクスリと笑った。
確かに、起こすように名前を呼んでからこんなことを言うのは少し理不尽だ。
ただ、彼女が起きていた分、本当に起きていなければならないほうが寝ていた。
ユリカの顔の隣で、ケット・シーが丸まっていた。
とりあえずワゴンをベッドの隣まで押して行ってから、ケット・シーを起こす。
いや、起こすことはできなかった。
「んにゃ、なんかうまそうな匂いにゃ……」
勝手に起きたからだ。
「ちゃんと見ててって言ったのに」
ため息をつくと、ふぁあ、とあくびをした。
「うまそうなの寄越せにゃー」
そしてそんなことを図々しく言い出す。
やれやれだ。
「ユリカ、食べれそう?」
一応確認しておく。
「どうでしょう」
そう言いながら体を起こそうとする。
が、どうやらうまくいかなかったようだ。
苦しそうな表情に、慌てて飛びついて寝かせる。
「ああ、無理しなくていいよ」
食べさせてあげるから。
シチューを手に取ると、ユリカは息を吐いた。
「ありがとうございます、すみません」
「いいよ、ほら」
「にゃー……」
スプーンで口に持っていってあげると、素直に食べてくれる。
「……おいしい」
そう呟いた彼女が少し惜しいと言う顔をした。多分、実際にはあまり味が感じられないのだろう。高い熱を出すとそういうことがある。
「そっか、あとでメイドさんにも伝えておくよ」
もう一杯、食べさせてあげる。
「にゃー……」
もっとも、あまり味の濃いものは風邪の時にはよくないのも事実。ひょっとしたら本当に薄いのかもしれない。
そういえば、具材に肉がない。考えられてある。
「にゃああああああっ!」
……。
足を噛まれた。
加減はしてくれているのか、痛くはないものの。
「よぉこぉせぇにゃああああ!」
やれやれだ。
「わかったよ、もう……」
食欲のない風邪人よりも、食欲旺盛すぎるケット・シーの方が疲れる。どういうことだ、いったい。
肩をすくめると、ユリカが笑った。
「ほら」
と、ケット・シー用だと言われた食器を床に置いてやる。
「零さないでよ?」
食器に飛びついた魔物からの返事はなかった。
脇目も振らずに平らげていくケット・シーを見て、ふと笑ってしまう。
本当に、ずるい。
こういう姿も、かわいいのだから。つい、甘やかしてしまう。
あっという間に器を空っぽにしたケット・シーは「もうないにゃ? おかわりにゃ」と上目遣いに見上げてくる。
ちゃんと味わって食べているんだか。
「ないよ。我慢して」
「なんにゃと、生意気にゃ!」
まったく、わがままなケット・シーだ。
「そんなことを言っても、私が作ったんじゃないし」
肩をすくめてやると、ケット・シーは「にゃー」と唸った。
「お前も人間なんだから、作れるはずにゃ」
「いや、意味わかんないから」
綺麗にお座りをしながら、ケット・シーが尻尾を振り出す。
「にゃー、なんでにゃ! お前がポンコツだからにゃ?」
思わず黙り込んでしまったのは、ある意味正解だったから。
ラーニエは料理ができない。そういう生活をしてこなかった。
とりあえずなんでも火を通せば食べれる、という乱暴な知識しかない。
剣は振れても包丁は握れない、そんな少女である。
もっとも、その剣だって初心者用のたいして使い物にならないものだが。
「ちょっとあのフリフリ女に頼みに行ってくるにゃ!」
しばらくすると、埒があかないと思ったのかケット・シーがそんなことを言い出した。
少しの間、フリフリ女? と考えたせいで反応が遅れてしまった。
メイドのことだ、と気がついた時にはもう遅い。
「え? ちょっと!」
扉の方へとスタスタと向かい、取手に飛びついて器用に開けてしまったケット・シーに慌てて声をかける。
「行ってくるにゃ!」
違う、そうじゃない。
「まっ」
待って、と口にする前に行ってしまった。
驚いて追いかけようとしたところで、自分がシチューを持っていることを思い出す。
食器が高価なものだろう、ということも、間違ってもこぼしてはいけないということも。
突然あれこれ考えたせいで、優先順位をつけられず混乱する。
人間の生理現象。
だがシチューの器をワゴンに置き、追いかけた時には見失っていた。
「……」
想像する。
ケット・シーがメイドに対し『おい、そこのフリフリ女!』と声をかけてしまう場面を。
血の気が引いた。
失礼極まりない。
どうすればいいのかわからず固まってしまう。
ふと、誰かの足音が聞こえた。
メイドか。
「あ、あの!」
そう思って声をかけたが、まず目に入ったのはまったく知らない男だった。
それだけでも恥ずかしくてたまらないのに、
「おや、お嬢ちゃん。どうかされましたかな?」
そんな風に眉をひそめられると、ますます人違いをしたという事実が重くのしかかってくる。
「あ、いえ、なんでもないです……」
しどろもどろで答えると、不思議そうな顔をされた。これではいよいよ『変な人』だ。
顔から火が噴き出す。
そう思ったほど熱くなった。
「今入ってもよろしいかな?」
男のうしろから屋敷の主人が顔を出す。
そういえば彼は医者を呼びに行ってくれていたのだった。
貴族特有の威厳のようなものを感じて、今更ケット・シーを見ませんでしたか、なんて言えなかった。
「は、はい……どうぞ」
扉を抑え、二人の男を迎え入れる。
時々廊下を確認してみたが、やはりケット・シーは見当たらなかった。
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