白鼬とメイドの話 4

「……ごめんなさい」

 ベッドから掠れた声が聞こえた。

 振り返ると、ユリカが薄目を開けてこちらを見つめている。

 そのそばでケット・シーが丸まっていた。

「いいって。そんなことより寝てなよ」

 側にいてあげてください、というメイドの言葉を思い出す。

 歩くたびに上質な毛を使った絨毯特有の軽い音がする。

 大きなベッドは見るからに寝心地のいいものだが、壁に掛かった絵画や、立ち並ぶ壺が安眠の雰囲気を壊している。

 多分収集家気質の人なのだろう。

「ありがとうございます」

 頬を真っ赤にしながらユリカが呟く。

 ふうふう、と喉の音を鳴らしながら目を瞑った。

 今は蛇がいない。ケット・シーは寝ているし、彼女を守ることができるのはラーニエだけだ。

 息を吐いて気持ちを整える。

 途端に、色々なものが不安になってきた。

 例えば、どう考えても自分は弱い。大した魔法は使えないし、力も弱い。

 それに、装備も貧弱だ。初心者向けの軽い剣に、ボロボロの鎧。

 頭を抱えたくなった。

 その上今の自分には、夢も未来もない。

 これから、どうすればいいのか。

 そんなことを思いながらベッドに目を落とすと、赤い毛布に異質な毛が落ちていることに気がついた。

 茶色く、細い毛。

 誰のものかは、考えなくてもわかる。

 ……まずい。

 慌ててケット・シーを抱き上げる。

「にゃっ? にゃぁっ! フーッ!」

 思い切り手を噛み付かれた。

 だが、肝が冷えたのは痛いからではない。

 浅く沈んだ毛布の上に、茶色い毛が散乱していた。

「あ、あ……」

 壺を大事にしているように、ベッドもきっと大事にしているだろう。

 しかも相当な値段のものであることは間違いない。

 弁償なんて、できるわけがない。

 気がついたら鳥肌が立っていた。

 慌てて払って、絨毯の上に毛をばら撒いてしまう。

 次の瞬間、

「きゃあああああああっ!」

 と叫んだのはラーニエではなかった。

 だからこそ、思考が停止する。

「にゃふぅっ?」

 全力で噛みついていたケット・シーが目を丸くする。

 それはメイドの声だった。

 屋敷のどこにいるのかはわからないが、ものすごい声だ。

「ちょっと! やめっ……やめて! やめてよ! お願いだからぁ!」

 最後は泣きベソをかいているかのようにすら聞こえた。

 ともかく、何が起きているのかはわからないが、とても必死な声だ。

 扉と、ユリカを見比べる。

 ユリカのことは心配だ。

 だが、あのメイドのことも気になる。

 いや、もちろん一番大事なのはなかまであるユリカなわけで、側にいてあげたい。

「いやあああああああっ!」

 でも、これは明らかに尋常じゃない叫びだ。

 一体何が。

 彼女は大丈夫なのか。

「んああ、もう!」

 警戒しなければならない相手なのはわかっている。

 けれど、不安なままでいられるほど肝が太くないのもまた事実。

「ね、ケット・シー」

 声をかけると「にゃ」と不機嫌そうな返事が返ってきた。

「お願い、ユリカのこと見ててくれない?」

 無意識に、上目遣いに見てしまう。

 何も言わずに、尻尾を振るのがケット・シーの答えだった。

 犬と違って、猫は不機嫌な時に尻尾を振る。

 嫌だ、ということだ。

「そう言わずに……お願い!」

 ね?

 ケット・シーは心なしか仏頂面で言った。

「ネズミ肉二枚にゃ」

「ああ、はいはい」

 苦笑しながら、このままではデブ猫になってしまうのではないか、とそんなことを思った。


 部屋を出てみたはいいものの、結局この広い屋敷のどこで騒ぎがあったのかはわからない。

 あの絶叫以降、声が聞こえなくなったからだ。

 確証はないが、そこまで遠くはないだろう。いくらなんでも、二階や三階から聞こえてくる声ではなかった。

 とりあえず、目を閉じて意識を集中してみる。頑張れば、気配を感じ取れるかもしれない。

 ——もちろん、できるわけがなかった。

 腕利きの冒険者であればともかく、ラーニエはただの元神学校卒業予備生。

 それもつい最近まで聖都ルージャルグの近くでウロウロしていただけだったのだ。本物の勇者の真似をしたところでうまくいくわけがない。

 それでも収穫はないこともなかった。

 突如キイキイキイ、と聞き覚えのある声が聞こえて目を開けると、正面から真っ白で長細い毛玉が走ってきた。

 例の白鼬だ。なぜかニンジンを咥えている。

「ギギッ」

 鼬が怯むように足を止める。

 が、それは一瞬のことだった。

 ラーニエが眉をひそめた次の瞬間には、猛烈な勢いで廊下を走り去って行った。

 あまりにも勢いがいいので、廊下を走って大怪我をした時のことを思い出したくらいだった。

 鼬が通り過ぎる際、ふわりといい匂いがした。

 塩っぱいような、それでいて甘いような。

「……?」

 どこかで嗅いだことのある匂いだが、いまいち思い出せない。

 いや、それよりも、だ。

 どうも鼬はあのメイドに懐いているようだった。ということは今走ってきた方に彼女はいる可能性が高い。

 ——何があったか、少し予想がついてしまったが。

 とりあえずそちらへ向かうと、かすかに匂いがしてきた。先程鼬が発していた匂いだ。

 嗅いでいるだけでもお腹が空くような気がするほど美味しそうな匂い。

 厨房、と札がかかった扉を見つけた。

 意を決して開けると、惨劇が広がっていた。

 強い熱気。濃厚な匂い。

 そしてこの、嵐でも通り過ぎたかと思うほどの散乱。

 食器は割れ、調理器具はばら撒かれ、ニンジン、キャベツ、ジャガイモが床に転がっている。

「……う、うう」

 その中で、メイドは白くどろりとした液体塗れになって蹲っていた。

 シチューだ。

「大丈夫ですか?」

 声をかけると、彼女は顔を上げた。

「……はい」

 泣いているのかと思ったが、そうではなかったらしい。

 悲しげではあったが、ラーニエを見て苦笑する。

「派手に……やられましたね」

 改めて辺りを見回しながらそう言うと、メイドはため息をついて、立ち上がった。

 そしてワゴンに乗った無事な四つの食器を見て、肩をすくめた。

「誠に申し訳ないのですが……お食事を運んでいただいてもよろしいでしょうか。わたくしは、ここの掃除がありますので」

 銀色の髪を頬に張り付かせ、ふくのすそからぼたぼたとシチューを垂らしながら苦笑する彼女に若干気圧されながら頷く。

「ありがとうございます。こちらのお菓子とフルーツは皆様でお召し上がりください。ケット・シー様にはこちらを」

 シチューの怪物のようになっているにも関わらず、メイドはテキパキと食べ物の説明をこなす。

「あ、あとで手伝いに来ます!」

 その様子に思わず口を挟む。

 すると驚いたように目を見開き、そして微笑んだ。

「お気遣い感謝いたします。ですがお構いなく。いつものことでございますので。お仲間の方の側にいらっしゃってください。あのご様子ですと、自分でものを召し上がるのもお辛いかと」

 そんなに丁寧に言われると、かえってつっけんどんのように聞こえてしまう。

 が、要は早く行ってやれ、ということなのだろう。

 ラーニエは「はい」と答え、ガラガラとワゴンを引いた。

「ごゆっくりどうぞ」

 そう言って頭を下げたメイドに苦笑する。

 大惨事としか形容のしようがない厨房、その中でシチュー塗れのメイドがこの対応をするのは、何とも言えない奇妙な感じがした。

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