白鼬とメイドの話 1
随分長い間荒地を歩いている。
具体的には三日ほど。
「……」
時折の事務的な会話以外、彼らに話し声はない。
ラーニエは焦っていた。
——それくらい皆、疲れている。
肉体というより、精神が。
仕方のないことだった。
人の目につくようなことはできない。つまり、聖都近くの町にお邪魔してどこかに泊めさせてもらう、ということができない。
加えて、食事も森を出てからは水ネズミの焼肉だけだ。
食に困っているのではない。プロの猟師が二匹もいる。
ただ、あれを調味料なしで食べるのは賢者でもなければ耐えられない。
……いや、賢者でも怪しいかもしれない。
それを、三日だ。
疲れるなという方が無理がある。
ああ、美味しい肉と野菜、それからふわふわのパンが食べたい。
神に仕える者として呆れてしまうようなことを考える。
その上、ラーニエが仕えているのは神だけではないのだ。
「にゃー、今日の分はまだにゃー?」
足に頭を擦り付けながら、ケット・シーが不満をこぼす。
あんたは自分で捕ったのを五匹全部食べたでしょう、と言い返したくもなるがそんな元気もない。
黙々と罠に水ネズミが掛かるのを待ち続ける。
罠——小さな檻にその辺で拾った花を仕掛けたもの。
匂いに誘われて中に入り込んだ水ネズミが餌を食べようとすると、出入り口が閉まってしまう、という見え透いたものだ。
夕日は徐々に沈み始め、刻一刻と暗くなっていく。
早く、早く。
焦りが徐々に顕著になっていく。
「にゃー」
ため息のように声を出して、その場に腹を出して寝転がった。
「仕方ないにゃ、触れにゃ」
ケット・シーだけがこんなに元気な理由は、もちろん自分で歩いていないからだ。
この三日間、ほとんどラーニエの腕の中で過ごしている。
気疲れする理由の一つからこんな風にされるのは腑に落ちないが、黙って腹を撫でる。
柔らかな体毛と、生き物特有の暖かさが指をくすぐる。
本当に腑に落ちないことなのだが、それだけで優しい気持ちになれるのだから仕方がない。
人肌が恋しいとは言うが、猫肌も素晴らしい。一瞬で、色々なものが吹き飛んでいく。
しばらくすると、気持ちがいいのかゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
なんだか良いように遊ばれているような気がするが、それはそれで彼らしいのかもしれない。
自分のことをただの猫だと思い込んでいるケット・シーとしては。
そんなことを考えていると、パタン、と罠に獲物が掛かる音がした。
興奮して駆け寄ると、そこには罠の中で暴れる水ネズミの姿があった。辺り構わず水を撒き散らし、罠は水浸しだ。
待ちに待った五匹目だ。
哀れな小型の魔物に、手を向ける。
「あんたに恨みはないんだけどね……ごめんね」
想像する。身の丈にあった、小さな電撃を。
集中する。世界中に溢れる電気の素を探り、そして精一杯集める。
お腹に力を込める。
パリパリパリ。
小さな電撃が水ネズミを穿つ。
ぢぃぢぃぢぃ!
耳障りな絶叫を上げて動かなくなった。
無論、死んではいない。これくらいで死ぬ魔物は存在しない。気絶しただけだ。
最後にちろりと噴射した水は、あるいは尿だったのかもしれない。
「ほら、掛かったよ」
そう声をかけると、
「ふにゃーっ!」
妙な声を上げて飛んできた。
気絶した水ネズミを地面の上に落とし、あとはもう見ないことにする。
仕方がないことだとはわかっている。自分だって同じことをやっているということは自覚している。
それでも、生きているものが死ぬ瞬間というのは見たくない。
何はともあれ、これで今日の分は無事全部ケット・シーに捧げられたことになる。
「ラーニエさん。お食事、できました」
と、ユリカが声をかける。
明るい声、とは言い難い。無理して明るくしようとしている声。疲れが滲み出ている。
そちらを見ると、ユリカが焚き火の前で座っていた。暖を取っているようにも見える。
その傍らには大蛇が寝そべって下をちろちろと出していた。
この大蛇が火を噴いてくれるおかげで、ラーニエたちは火打ち石を使う手間を省いて火の通った肉にありつくことができる。
もっとも、おそらく蛇の方はもう食事を済ませている。その辺の魔物でも狩って食べたあとだろう。
「わかった」
返事をして、焚き火へと向かった。
空にはまだ夕日の色は残っている。だが、気の早い星々が瞬き始めていた。
夜の訪れだ。
わかってはいたことだが、枝に串刺しにされて焼かれているのは水ネズミの肉だ。
ユリカも笑ってはいるが、どちらかというと苦笑いの方が近い。
目に生気がない、というべきか。
もちろん、ラーニエも似たようなものだった。
神への感謝の祈りも、形式的なものになってしまう。
目を開けると、祈らないユリカがまだ手をつけていなかった。
食べるのが億劫なのだ。
それについて何も言えない。ラーニエ自身もそうなのだから。
この水ネズミが神からの恵みであることは百も承知。
これがなければ人間組は餓死することもわかっている。
それでも、もっと美味しいものを食べたいと、欲深い人間は思ってしまうものなのだ。
「もう、いいのではないでしょうか」
と、ユリカが枝を手に取ってそう言った。
「え、何が?」
ラーニエもつられて枝を取り、首をかしげる。
「町に入っても、大丈夫なのではないでしょうか。聖都からはだいぶ離れましたし……」
上目遣いになっているのは、それだけ必死だからだろう。
「我も同意見だ」
と蛇が舌を出した。
彼はユリカのいうことならなんでも同意だろうから無視をする。
とは言え、ラーニエも同じことを考えていたところだった。
いい加減、もういいだろう、と。
それに、もう少しでもこの生活を続けていたら、いよいよ気が狂ってしまう。
本当は一日も早くそうしたいところなのだ。だが、そのためには一つ問題がある。
「でも、いきなり火吹き大蛇を見たら、どこの町も入れさせてくれないんじゃないかな」
ラーニエの言葉に、ユリカは黙り込んだ。
聖都にある教会を襲うことができるほどの巨大な蛇だ。
いくら何もしませんと言っても信じてもらえるかどうか。
——それに実際、人を殺しているのだ、この蛇は。
「我が外にいれば良いのだろう」
と、火吹き大蛇が言った。
「えっ」
思わず声を上げると、ユリカも同じようにしていた。
「それで問題は解決するのだろう?」
確かに、そうなのだが。
「でも、あんたはそれでいいの? ユリカと一緒にいなくても」
ほとんど離れることのない両者だ。心配にならないのだろうか。
「貴様を信じよう」
ぎろりと頭を上げてこちらを睨んできた。
……しんじているというよりも、どちらかというと、これは脅迫だ。
我が主に仇なすものは誰であろうと殺す。
これは蛇の言葉だ。
ラーニエは、あはは、と引きつった笑いを浮かべた。
「あ、あたしは、あなたが心配だわ。変な奴に襲われでもしたら……」
当のユリカは蛇の心配をしている。
すると蛇は体を起こし、愛おしいと言わんばかりに目を伏せた。
「主、我はそこらの雑魚に負けるほど軟弱ではございませぬ。逆にこれくらいでのたれ死ぬようであれば主を守ることなどできませぬゆえ、どうぞお見捨てくださいませ」
うーん、とラーニエは心の中で唸った。
やはり、忠誠心が行き過ぎている。
こんなことを言われて心配にならない方がおかしい、ということに気づいていないのだろうか。
「見捨てるなんて……そんなことできないわ。やっぱりもっと遠くに行ってから……」
案の定、ユリカが不安そうに言い始めて、
「なりません主! 主には一刻も早くきちんとした屋根の下で休んでいただきたいのです!」
「でも、それじゃあ、あなたが……」
これでは堂々巡りだ。
「ああ、わかったわかった! 話は町が見えてきたらしよう!」
いずれにせよ、これだけ盛大に何もない荒野でする議論ではない。
町に入ってみたら、意外と蛇も受けれてくれるかもしれないのだ。
ほぼ有り得ないことだが。
「にゃー、どうしたにゃ?」
ちょうどそこへ、口の周りを地で濡らしたケット・シーがやってきた。
いずれにせよ、今日も野宿である。
ユリカも、ラーニエ自身も疲労の限界なのだ。何か考えなければならなかった。
だが往々にして考える時間というのは与えられないものだ。
翌日、真っ先にそれに気づいたのは蛇だった。
「主?」
長い荒野は終わり、遠くの山から流れているらしい川と、それによる草原に足を踏み入れたあたりだった。
「主、お疲れですか?」
蛇が立ち止まってたずねる。
それで、ラーニエも足を止めて振り返った。
「どうしたの?」
と、きいてしまったが、実際にはたずねるまでもなかった。
「わっ」
と声を出してしまったくらいである。
「主が」
という蛇の言葉を遮るように、
「大丈夫です……」
と弱々しく囁く。
「だ、大丈夫?」
そんな声を上げてしまったくらいだ。
明らかに大丈夫ではない。
慌てて駆け寄ろうとしたら、ケット・シーが腕から逃げ出した。
「タマネギの匂いにゃぁ〜」
わけがわからないが、今はお猫様のわがままに構っている暇はない。
「大丈夫ですから……」
そう呟くユリカの額に手を当てると、
「あっつ!」
人間の額とは思えないような熱さを感じた。
「熱出てるよ熱!」
「お休みくださいませ、主!」
多分初めて、火吹き大蛇と意気投合した。
でも、と渋る彼女を強制的に座らせ、水を飲ませて、しかしどうしたものかと考える。
風邪は、薬草では治らない。
治すにはきちんとした寝床と、栄養のある食べ物が必要なのだ。だが、今はそのどちらもない。
せめて誰かが通りかかってくれれば。
そう思った時、キイキイ、と甲高い鳴き声がした。
この上魔物までやってきたか、と息を飲んだ。
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