旅立ちの話

 わん!

 森に、犬の鳴き声が響く。

「ま、オレは賛成だにゃ」

 顔を手で洗い、股の間を舐めながら、ケット・シーが言った。

 知らない人が見ればそれは異様な光景に思えただろう。

 その犬は雷撃の野犬といい、森の近くの草原に暮らす魔物。こんな森の奥にいるはずがない。

 それに、雷撃の野犬は草原最強なのだ。それが小さなケット・シーの前でお座りをして、さながら忠犬のようにしている。

 これを異様と言わずに何というか。

 もちろん、理由はある。

 簡単なことだ。二匹が派手に戦った時、ケット・シーが圧勝した、というだけのことである。

 それもそれでおかしいことなのだが。

「え、何が?」

 そんなことを考えながら、気持ち程度の防具を身につけたラーニエがたずねる。

 着ていて涼しさすら感じる安物の防具だ。その上、あちこちに傷も付いている。激しい戦闘でもあれば自壊してしまうかもしれない。

 それでも、ないよりはましと買い換えない理由は単純にお金がないから、というだけではない。

「この森で暮らさぬか……と」

 そう言って舌をちろりと出した者がいるからだ。

 蛇。

 当然、ただの蛇ではない。

 巨木のような蛇だ。体は幹ほどもあり、身長は森のどんな木々よりも長い。

 名を、火吹き大蛇という。

 教会を襲うと恐れられる蛇を助けたせいで、ラーニエは聖都ルージャルグの城壁の中へ戻ることができなくなってしまったのだ。

 その選択が間違っていたとは思っていない。

 だが、自身の正しさとは別に、重大な問題が差し迫りつつあった。

「却下。気持ちは嬉しいけど、毎日生の木の実じゃ体壊すよ」

 食べ物が買えない。

 今のところは森の木の実でしのいでいるが、限界はある。

 にゃー、とケット・シーが顔を上げる。

「ネズミを食べればいいにゃ」

 それはあんただからできることでしょ、とラーニエは苦笑する。

 ここで言うネズミとは、水ネズミのこと。

 どこにでも生息しており栄養価はそこそこだが、とてつもなくまずい。

 それだけでも御免被りたいところだが、さらに森である以上火が使えないのでネズミの死体を生で食うことになる。

 そんなことができるのは魔物だけだ。

 ちなみに、魔物たちにとって水ネズミは旨いものらしい。

 ケット・シーだけではなく、蛇すらおいしいと言っていた。

 ラーニエにとってみれば信じられない事実である。

 彼らの味覚に疑問を抱いている人間がもう一人。

「えっと……あたしも、森から出たい、です」

 控えめにそう口を挟んだ少女。

 ユリカといい、蛇と一緒にラーニエが助けた少女である。

「主がそう仰るのであれば」

 蛇が恭しく頭を垂れる。

 それをみて、ラーニエとユリカは苦笑いを漏らした。

 忠臣のような態度だが、その愛情は些か真っ直ぐすぎるところがある。

 なにせ、それ故に人間が沢山傷つけられ、あるいは死んでいるのだ。今この状況を作った一端を担いでいると言ってもいい。

 ただ、今はケット・シーのめんどくさがりを説得する数が欲しかったというのは事実。

「ほら、ユリカも蛇もそう言ってるし、早い所出発しよう?」

 しばらく不機嫌そうだったケット・シーは、やがて眠そうに尻尾を振った。

「仕方ないにゃ……」

 そして、そのまま犬に向き直る。

「まー、そういうことだから、縄張りはお前に預けておくにゃ。ちゃんと守るんだにゃ」

 わん!

 犬が任せておけと言わんばかりに吠える。

「……え、あんたいつ縄張りなんて持ったの?」

 ふと思ってラーニエがたずねると、にゃーと唸った。

「オレは戦いに勝ったんだにゃ? とーぜん縄張り貰ってるに決まってるにゃ」

 はあ、と曖昧に答える。

 なるほど、これが野生の厳しさか。

 わん、と犬が鳴いた。その通り、と言っているのか、あるいは何か未練があるのか。

 もっとも、そうだとしたら縄張りの安全は保障されたも同然だろう。

 こう見えて草原最強なのだ。このケット・シー以外には負けたことがない。

 そしてどちらかというと、このケット・シーの強さが尋常ではないのだ。

 超上級魔法をポンポンと放てるだけの力と、無尽蔵の魔力を持つケット・シー。絶対に敵に回したくない。

 正面からぶつかれば最近世間を騒がせている魔王にだって勝ててしまうのではないかと思うくらいに強い。

 ——魔王、か。

 唐突にラーニエは溜息をついた。

 胸に輝く男性の横顔の刺繍を触る。

 それは彼女の誇りだった。

 数日前までは。

 だが、今はもう無意味なものなのだ。

 ラーニエはすでに、ルージャルグ神学校の生徒ではないのだから。

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