ポンコツ勇者と猫と月神

月神の話

 ずっと昔の話だ。

 魔王が異世界を手にするため、軍を編成した。

 徴兵が行われ、強者たちは褒賞を求めて自ら志願して行った。

 その中で、頑として断り続けていた者がいる。

 額に紫の宝珠を持つ、純白の鼬。

 そこそこ広い縄張りを持ち、そしてそれを維持してきた実力者。

 月の化身。

 そう呼ばれ恐れられた魔物だ。

 噂は魔王の耳にも届いていた。そして当然、彼はその力を欲しがった。

 まずは幹部の座をちらつかせ、安定した生活を約束し勧誘した。

 次は命令になった。

 三度目は武力での脅迫になった。

 鼬はそれに対し、力で答えた。

 太陽に隠れた月すら呼び起こし、そして異世界を攻め落とすための軍勢の一部を削り取った。

 四度目は、なかった。

 鼬がそこまでする理由、それは単純に面倒くさそうに見えたからだ。

 食料はある。寝床もある。それなのに、どうして異世界に侵略する必要があるのか。

 彼には全く理解できなかった。

 やがて戦争が始まった。魔王が異世界への扉を開き、制圧戦が始まった。

 元々弱肉強食、騙し騙されが常の魔界に秩序というものはあってないようなものだったが、それがますますなくなった。

 そら見ろ。やっぱり面倒なことになった。

 縄張りを守った彼は這々の体で逃げる敵の後ろ姿を見ながら思った。

 ならず者が増えた。

 縄張りの見回りをしながら、そんなことを考える。

 同時に、ささやかな噂を思い出した。

『異世界は素晴らしいところだ』

 誰がそんなことを言い出したのかはわからない。

 大方、魔王軍の誰かだろう。聞いた話ではあっさりと一部を占領し、今では国を作れる程度だという。

 更に戦力を増やして完全制圧を狙う。

 民心を得るためのもの。

 そんなところか。

 ——異世界への移住。

 そんなに悪いことでもないかもしれない。

 淡々と考える。

 少なくとも、現状の無秩序な魔界よりはいいかもしれない、と。

 現実的な問題もあった。

 獲物が減った。どうやら噂を信じて皆異世界へと向かってしまったらしい。弱者は群れていないと安心できず、故に情報に踊らされるものだ。

 そしてその弱者に踊らされるのが強者。

 苦笑まじりに移住を決断する。

 魔王が通った異世界への門は常に開いた状態であり、簡単に行き来できるようになっていた。

 鼬が辿り着いた時、すでに魔王は世界の三割ほどを武力によって掌握し、三割ほどは無条件に降伏している状態だった。

 故にしばらく戦乱の後の何もない、焼け野原だけを見ながら過ごした。

 元々は何だったのかさっぱりわからない残骸。

 原型をとどめていない死体。

 燃えた森、燃えた草原。

 ちらほらと生え始めている魔界の草。

 確かに獲物は沢山いる。だが思ったよりも魔界と大差ない。

 ただ、それが戦争による爪痕だというのはわかりきっていた。

 わからないわけがない。魔界にはないものがたくさんあったのだから。

 例えば、住処。

 洞窟や単に穴を掘っただけのものではなく、石や木を組み合わせた芸術的な寝床。

 例えば、食べ物。

 魔界にはない、美味しい木の実や生き物が沢山ある。

 だから旅を続けた。理想的な縄張りを求めて。

 それは唐突に現れた。

 陸地の末端に辿り着いたのだ。

 その日は、丸く大きな月が出ていた。だから鼬は機嫌が良かった。

 そこはまだ魔王の手が及んでいない場所だった。とはいえそれも時間の問題といった雰囲気で、人々は絶望的に日々を送っていた。

 もちろん、人生を締めくくる準備を始めている者どものことなど、彼には関心のないことだ。

 興味があったのは潤沢な獲物、綺麗な川の二つだった。

 いや、三つだ。

 嗅いだことのない香りに釣られ、海に出る。

 そこで、見た。

 空と海に浮かぶ、二つの月を。

「おお……」

 本物と、偽物。

 美しい円形の月と、波に歪む月。

 どちらも、素晴らしいと思った。

 そして彼は辺りを自分の縄張りに決めた。


 その場所にも魔王軍は攻め込んだ。

 そして撃退された。たった一匹の魔物によって。

 人々は彼を神だと思った。

 祈りの通じない自らの神をあっさりと捨てて、小さな鼬に信仰を捧げることにした。

 崇められていたか。

 ——いや、違う。

 むしろ大軍を一匹で退けられる強大な力を恐れらていたのだと、今なら思う。

 そうでなければ唐突に封印されることはないだろう。

 海にうかぶ月の中に、突然閉じ込められるなんてことは。

 様々なことがあった。

 まず、あれだけ我が物顔で闊歩していた魔王軍が突然敗れた。

 どうも人間の中にやたら強い者がいて、幹部を次々に斬り殺し、魔王も封印されるに至ったらしい——と人々の祈りで聞いた。

 次に、彼と魔術的な契約をし、封印した司祭——彼にとっては詐欺師野郎——が死んだ。いい気味だ。

 多分、寿命だ。せめて封印を解除してから死んで欲しかった。

 ややこしい封印だ。自分の体の一部を捧げないと解除できない。そしてそれはそのまま契約の儀式でもある——というもの。

 三番目は、どうにかして封印を解こうとしてきた人間どものことだ。

 魔王との戦いが終わったら、今度は人間同士で殺し合いを始めたらしい。

 宗教戦争、とかなんとか。馬鹿馬鹿しい。

 もっと馬鹿馬鹿しいのは、鼬の力を使って窮地を脱しようとした人々だ。

 封印解除の儀式は正しく伝わっていなかったのだ。

 真夜中、海の中に木の実を投げ込む人々をぼうっと見ていた。

 そんなことをされてもこちらは食べられない状態なのだ。嬉しくもなんともない。

 次は生き物の肉になった。動物、魔物。

 うまそうなものが次々に海の中へ捨てられていくのを見ながら、彼はため息をつくしかなかった。

 そして最後は人間になった。女。子供。老人。それを、生きたまま海に投げ込む。

 馬鹿馬鹿しいにも程がある。吐き気がするほどの阿呆だ。

 結局封印を解くことができなかった人々は、何を勘違いしたのかとことん彼を罵り、やがて見向きもしなくなった。

 自分は永遠にこのままなのだ、と気づいた。

 こんな世界、来なければよかった。

 後悔はした。気が遠くなるほどした。

 実際に、ほとんど気絶していた。

 何も聞かない、何も見ない。気絶しているのと同じだ。

 だから、唐突に封印が解かれた時、彼は何が起こったのかわからず困惑した。

「月神様」

 と、少女がかつての名を呼んだ。

 彼女はボロ切れを纏っていた。ぼうっとしていた彼にはそう見えた。

 だが実際には、煌びやかな刺繍をあしらった高価なドレスを着ていた。ただ、破れていたり泥まみれになっているだけで。

 鼬にはわかっていた。

 自分の契約相手は彼女じゃない、と。

 彼の、契約相手は。

「おね……ちゃ」

 彼女の胸に抱かれたもう一人の少女。

 血塗れの鉄板を身に纏い、今もなお脇腹から血を噴き出している虫の息。

 思わず目を疑ったのは、彼女の顔だった。

 何の表情もうかがえない、血の気が失せたそれに付いているはずの、二つの目玉のうち一つがない。

 近くに、小さなナイフが転がっていた。

 それで、察する。

「この子を……妹を、助けてください!」

 経緯はわからない。

 だが、姉が死にかけの妹の目玉を繰り抜いて、鼬の封印を解いたのだ。

 だから、妹が彼の契約者。

 呆然と主人を眺める。

 空に浮かぶ月と、海に浮かぶ月が輝く。

 紫の宝珠が、それに呼応した。

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