火吹き大蛇

 とぐろを巻いた、建物ほどもある巨大な蛇。

 その鱗は鈍色に光り、その目はどこまでも冷たい。

 だが、足が止まったのは別の理由からだった。

 そこは、まさに今行こうとしていた食堂だったからだ。

 安く、たくさん食べられるお店。味も、普通に美味しい。

 そんな、素晴らしい場所を、なぜ。

 いやわかっている。魔物が人間を襲うのに深い理由なんてない。

「ぼ、ぼくの……店を!」

 騒然とする中、一際震えている声が聞こえた。

 見ると、立派な剣を腰に刺した少年が一人、顔を青白くしながら体を震わせている。

 だが、蛇を睨む目には憎しみがはっきりと浮かんでいた。

 ラーニエは彼に見覚えがあった。同期の卒業予備生——勇者だ。

「何があったんだい?」

 店から女性が出てくる。この食堂の店主の妻だ。

 野次馬が一斉に息を飲む。

 眉を潜めていた彼女は、ふと蛇を見上げて、そのまま悲鳴を上げて固まった。

「ママ!」

 勇者が叫ぶ。

 女性がこちらを振り返る。

「マー坊!」

 その時、もう一人店から出てきた。

「おい、どうした?」

 食堂の店主だ。

「ひぃ!」

 彼もまた火吹き大蛇の姿を見るとその場

「パパ、ママ、早く逃げて!」

 マー坊が剣に手をかける。

 彼は学校では最優秀な成績の人だった。多分彼なら何とかなるだろう。

 だが火吹き大蛇を見て、そんなわけがないと悟った。

 大蛇の目はまっすぐ店主夫妻に注がれていて、マー坊の方には興味すらないようだった。

「アイツ、早くどうにかしたほうがいいんじゃにゃいか?」

「そうだけど……でもどうすれば」

 答えると、にゃーと、ケット・シーがため息をついた。

 ひょい、と腕から飛び出す。

 突然柔らかな温かさがなくなって、空気の冷たさを感じた。

 ……冬はこの前超えたばかりだけれども。

「あんなヤツ、どかーんすれば一発にゃ」

 ああ、そうか。爆発の魔法を使えば火吹き大蛇と言えども——。

「いや、待って待って待って! ダメダメダメ!」

「にゃ、なんでにゃ」

 ケット・シーが怪訝そうに振り返る。

「あんなの使ったら街まで吹き飛ぶでしょ!」

 大蛇を倒せても街が瓦礫の山になったら本末転倒だ。

「あんた、あれ以外使えないの?」

 爆発の魔法を使えるのだ。あれしか使えないなんてことはないだろう。

 だがケット・シーは低く鳴くばかりだ。

「わ、わかんないにゃ」

 そして、返ってきたのは微妙な言葉。

「何よそれ!」

「にゃあっ! じゃあおまえがやるにゃ! この腰抜け!」

「うっ」

 言葉に詰まった。

 それで、自分が恐怖で動けなくなっていることに気づく。

 未だに剣を抜いていないのも、勝手にケット・シーに頼って、苛立っているのも。

 つまりは、腰が抜けていたのだ。

 大蛇を見上げて、そして絶望する。

 その巨大さもそうだが、怖気付いた自分自身に。

 こんなことで、憧れの勇者になんか、なれるのか。

 答えはまさに、火を見るよりも明らかだった。

 雄叫びをあげて、マー坊が走った。

 鱗がある背中を避けて、柔らかい腹を目掛けて飛びかかる。

 だが剣が蛇にあたることはなかった。

 大きく振った頭に直撃し、勇者の少年は吹き飛んだ。

「マー坊!」

 店主夫妻が叫ぶ。

 だが。

「貴様らか」

 大蛇が夫妻に視線を戻し、低い声で呟く。

 何か嫌な予感がした。

 そして、こういう時の予感は、本当によく当たる。

 大蛇が口を開く。

 見たくない、と思った。

 だが見てしまった。

 昔、教会を焼き払ったと言われる炎。

 悪魔じみたそれが、人を飲み込んだ。

 夫妻が絶叫する。

 脳みそに突き刺さるような悲鳴。

 それは言葉になっていないが、マー坊、と言っているように聞こえる。

 野次馬も悲鳴をあげる。

「ママ! パパ!」

 騒然とする中、マー坊の絶叫が響き渡った。

 夫妻を助けようと炎へ飛び込もうとする。

 そばにいた男が彼を押さえ込んだ。

「離して! 離してよ!」

 ふと足音が聞こえた。

 そちらを見ると、少女が息を荒あげながら走ってきた。

 惨状を見る。

「……あ」

 細い腕をだらりと垂らし、小さく呟く。

「アイツ行っちゃうけどいいのかにゃ?」

 ケット・シーの言う通り、大蛇は道を我が物顔で立ち去っていく。

 ラーニエは答えられなかった。

「何というか、惨敗だにゃ。縄張り、素直にあげた方がいいんじゃないかにゃ」

 正論を聞きながら、ラーニエはもう一度少女の方を見る。

 まるで幽霊のような瞳で、彼女は延々と炎を見つめていた。

 多分、夫妻と仲が良かったのだろう。

 何もできなかった。

 大蛇を目の前に、私は何もできなかった。

 ラーニエもまた、立ち尽くしていた。

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