第4話 古代オリエント編(4)山の民の三王国
はじめに
古バビロニア王国の滅亡後、メソポタミア周辺に山の民と呼ばれた異民族によって建てられた3つの国が興り、互いに覇を争います。そして、エラム、エジプトといった従来の勢力などとも対立しました。彼らの活動の結果としてメソポタミア、アナトリア、レヴァント、エジプトといったオリエントの各地方がつながりを持ち、ひとつとなるのでした。
アナトリア地方を拠点とするヒッタイトは、鉄器を用いたことで有名な国です。彼らはアナトリアの鉱物資源の交易を重視し、シリア地方の交易拠点を欲しました。しかし、四方を敵に囲まれている厳しい環境から、繁栄と衰退を何度も繰り返すことになります。
ヒッタイトが勢力を伸ばすことでオリエント全体に鉄器文明を浸透させるという役割も果たしました。
次にアッシリア地方を拠点とするミタンニ王国です。ミタンニは戦士階級が支配する封建国家で、馬術に優れていました。ミタンニは大国エジプトに対し政略結婚を繰り返しました。
ヒッタイトと争い優勢の時期もありましたが、最後には属国化させられ、さらにその隙に領土の東半分をかつての属国であったアッシリアに奪われ、最後はそのアッシリアに滅ぼされることになりました。
最後はバビロニア地方に拠点を置いたカッシート王国。この地方を治めた他の民族同様彼らもまたシュメール文化を受け入れました。カッシート王国はバビロニアの王朝としては最も長く存続しました。
(1)山の民の三王国
バビロニア王国の滅亡後、メソポタミア周辺では山の民によって建てられた三つの王国が覇を争い、エジプト王国などとも対立しました。
アナトリア地方
・ヒッタイト王国(ヒッタイト人)(前1650-前1190)
アッシリア地方
・ミタンニ王国(フルリ人)(前1500頃-前1270頃滅亡)
バビロニア地方
・カッシート王国/バビロン第三王朝(カッシート人)
(前1500頃-前1155)
(2)ヒッタイト(前1650-前1190)
【ア】アニッタ文書の時代
ヒッタイト人はアナトリアに居住していたインド・ヨーロッパ語族ヒッタイト語を話す人々です。元々彼らがどこにいたのかは分かっていませんが前2000頃にアナトリア半島へやって来たと考えられており、それ以前に居住していたハッティ人やアッシリア人の文化を取り入れ、楔形文字や円筒印章を用いるようになったと考えられています。
アニッタ文書と呼ばれる文書にヒッタイト人の初期の王ピトハナとアニッタの物語が記されています。
クッシャラの王ピトハナは隣の都市カネシュ(ネサ)を征服します。そして、彼の息子アニッタは父の偉業を継ぎ、ハットゥシャ、ザルプワなどいくつかの都市を征服したということです。
アニッタの王国はやがて崩壊し、その後数十年にわたり記録は残っていません。
【イ】古王国時代
紀元前1650年ころハットゥシャを首都としてヒッタイト古王国が成立しました。
彼らは他の民族が青銅器しか作れなかった時代に、鉄器を用い、メソポタミアに大遠征すると古バビロニア王国を滅ぼしました(紀元前1595年頃)。
古王国を建国したのはラバルナ1世という人物で、後の王はみなラバルナを名乗りました。
次の王がハットゥシリ1世です。彼がハットゥシャを再建し、ヒッタイトの首都としました。ハットゥシリという名前もハットゥシャから取ったものです。
彼の目下の敵は 北シリアのヤムハド王国(首都ハルペ(現在のアレッポ)、アムル人の国で前節で『マリ』のジムリ・リムが亡命した国です)でした。彼は属領である『アララハ』(後の『アンティオキア』付近)を占領するも、ハルペを落とすことはできませんでした。
3代王にして古バビロニア王国を滅ぼしたのはムルシリ1世です。彼は前1595年にヤムハドの首都ハルペ(現在のアレッポ)を陥落させるとそのままユーフラテス川をくだりバビロンを陥落させました。しかし、この遠征は本国の無政府状態化と資源の浪費をもたらし、帰国後ムルシリ1世は暗殺されてしまいました。
(なお,陥落させたバビロンは統治することなく略奪した後、明け渡しています)。
その後の政治的混乱の中でハルペはフルリ人に奪われ、さらにアナトリア半島南岸のキリキア地方も奪われます(『キリキアの門』とも呼ばれる交通の要衝です)。キリキア地方には『キズワトナ』と呼ばれるフルリ人の国家が生まれます。
それから長い間ヒッタイトは弱小国家となり記録もほとんど残っていませんが、前1500頃、ようやくテリピヌという強力な王が現れます。テリピヌは要衝『カルケミシュ』(現在はトルコとシリアの国境にある。守護神は女神クババ=キュベレー)をフルリ人から奪取、『キズワトナ』に遠征し、その後同盟を結ぶとミタンニ王国を攻撃し失地の一部を回復します。
また、彼はテリピヌ法典を編纂し、王権を強化しました。
彼の死後、再びヒッタイトは弱小国に戻り、記録も少なくなります。そこでテリピヌを古王国最後の王とし、以後の混乱期を中王国時代と区分します。
【ウ】中王国時代
古王国時代と新王国時代の間の期間を中王国時代と言います。記録の乏しい期間が約70年続きます。
【エ】新王国時代
前1430頃、トゥドハリヤ1世が衰退したヒッタイトを中興し、彼を以って新王国時代が始まります。彼は再び『キズワトナ』と同盟を結ぶと遂にハルペを奪還します。
この頃から、ヒッタイトを悩ませる存在として北方の『カシュカ族』が現れます。コーカサス地方から移住してきたのではないかとも言われています。トゥドハリヤ1世も繰り返しカシュカ族を討伐しますが、討滅することはできませんでした。
また西方の『アルザワ』国、『セハ川の国』、『アヒヤワ(アカイア人)』とも戦いました。
彼の時代にヒッタイトは文化的に急速にフルリ化していきます。彼自身がフルリ人の血をひいていたのではという説もあります。
トゥドハリヤ1世の死後、ヒッタイトはまたまた弱小国家に逆戻り、北方の『カシュカ族』がヒッタイトの中心部にまで侵入し、ついには首都ハットゥシャまで陥落してしまいます。東方の『ハヤサ』や西方の『アルザワ』国もまた、ヒッタイトに侵入してきました。
次にヒッタイトに栄光が訪れるのはシュッピルリウマ1世(前1355年頃―前1320年頃)の時代。彼は父王トゥドハリヤ2世の代に将軍として活躍し、旧都ハットゥシャを奪還します。そして兄が王位を継いだ直後に暗殺、王位を奪います。
彼は、まず政略結婚により『アルザワ』と『ハヤサ』を降します。
一度ミタンニ攻略に失敗すると、北シリアの交易拠点である『ウガリット』を属国化するとともに、婚姻外交によりカッシート王国と同盟を結び、再びミタンニ王国を攻めます。まずフルリ人の国イシュワを攻め、次にミタンニの首都ワシュカンニを目指します。ミタンニ王トゥシュラッタは戦わず逃げ、息子に暗殺されます(前1350)。シュッピルリウマ1世は、トゥシュラッタのライバルであったアルタタマ2世を擁立し、ミタンニ王国を属国化します。
さらにミタンニ領であった『ハルパ』、『カルケミシュ』という要衝を攻略しながら、領土を広げました。そして、息子のピヤシリをカルケミシュの王に、テリピヌをハルパ王に封じます。彼の代でヒッタイトの国土は3倍にもなったのでした。
この時代、エジプトがオリエント最強の国家でした。ヒッタイトとエジプトの国境には『アムル』王国があり、当時はエジプトに従属していましたが、アメンホテプ4世(イクナートン、アクエンアテン)が宗教改革を行って国内に目を向けている隙を突き、アムルの王にヒッタイトが宗主国であることを認めさせます。
その後、シュッピルリウマ1世はエジプトとの同盟を試みますが、それは失敗に終わります。アメンホテプ4世の死後、シュッピルリウマ1世の子ザンナンザとアメンホテプ4世の未亡人ダハムンズ(ダムハンズはエジプトで王妃を意味する称号であり、アメンホテプ4世の王妃ネフェルティティであるとする説のほかツタンカーメンの王妃アンケセナーメンであるとする説もあり、はっきりとしない)の縁談が持ち上がります。ところが、話をまとめてザンナンザをエジプトへ派遣したところ、その途上でエジプトの将軍ホルエムヘブ(後にファラオになる)の手によってザンナンザが暗殺されてしまうのです。
王子の死に激怒したシュッピルリウマ1世はエジプト遠征を決意し、嫡男アルヌワンダ2世に『カナン』を征服させました。しかし、このときエジプトから疫病を持ち込んでしまい、その疫病によってシュッピルリウマ1世は病死してしまうのでした。
さらに次王となったアルヌワンダ2世(前1320―前1318)は、弟であるカルケミシュ王ピヤシリ、ハルパ王テリピヌと協力し、よく国土を守りますが2年後に同じ病でなくなります(彼の後継者である子も病で亡くなっています)。
アルヌワンダ2世の後を継いだのは別の弟であるムルシリ2世(前1318-前1295)でした。上の二人の兄はおそらく母親の身分が低かったっために王位継承権がなかったのだろうと言われています。
彼の代、周辺の敵には北方の『カシュカ族』、東方のアッジ(ハヤサ)、西方の『アルザワ』国、南東の『アッシリア』などがありました。しかし、彼はカシュカ族を鎮圧し、アルザワ国を影響下に収め、シュッピルリウマ1世の代から影響力を持っていたアムル王国に対し、再びヒッタイトを宗主国と認めさせることにも成功しました。
さらにその子ムワタリ2世(前1290―前1272)の代、紀元前1285年頃、ヒッタイトはエジプト王国(ラムセス2世)と争い、シリアのカデシュで衝突します。決着はつきませんでしたが、エジプトの北上は阻止され、事実上はヒッタイトの勝利となりました。歴史上初の公式な軍事記録に残された戦争として著名なカデシュの戦いです。その後、世界最古の講和条約(カデシュの和約)も結ばれました。
ムワタリ2世は、首都をタルフンタッサに遷都します。ハットゥシャは『カシュカ』族に近すぎるためです。ハットゥシャには弟のハットゥシリを総督として置きました。
ムワタリ2世には正室との間に子がなかったっため、庶子であるムルシリ3世(前1270-1264)が後を継ぎました。
属国となったミタンニの王シャットゥアラ1世、そしてその子である王ワサシャッタは再三、ムワタリ2世に対しアッシリアと戦うことを要請しました。ムルシリ3世はこれに応じましたが、言葉ばかりで軍隊を送ろうとはしませんでした。こうしてミタンニはアッシリアに滅ぼされてしまいました。
ムルシリ3世は叔父であるハットゥシリから領地を奪おうとしましたが、逆にサムハに幽閉され、次いでヌハッシェに追放されました。臣下たちはハットゥシリを支持し、彼はハットゥシリ3世として即位しました。
彼の功績として最も有名なものがエジプトとの和解です。それは『カデシュの和約』と呼ばれる現存する最古の和平条約です。
ハットゥシリ3世の子、トゥドハリヤ4世がヒッタイトの最後の強い王でした。彼は一時的にキプロス諸島までを領有しました。
【エ】滅亡
ヒッタイトがミタンニ王国を滅ぼしたのは栄光の始まりであるとともに、凋落のきっかけでもありました。ミタンニ王国が衰退する中で、アッシリアが完全に独立してしまいます。アッシリアはヒッタイトがエジプトと争う中で、着実に力を蓄えていました。ヒッタイトはエジプトと同等にまで強力になったアッシリアとも戦わなければならなくなったのです。
そして、『前1200年のカタストロフ』という歴史的事件により、ヒッタイトは崩壊します。エーゲ海から侵入した『海の民』と呼ばれる人々の侵略を受けたのです。
ヒッタイトは『海の民』に交易上の重要拠点であるキリキア(旧キズワトナ)とキプロス島を奪われ、ウガリットを破壊され、前1180年ころにはハットゥシャは全焼し、その後様々な勢力の攻撃を受け歴史から姿を消します。
【オ】シリア・ヒッタイト王国群
ヒッタイトが滅びた後も、カルケミシュやタルフンタッサといった重要拠点は残っていました。その地を収めていた王(副王)たちは、ヒッタイトの後継者を自称しました。それらの国もやがてはアッシリアの支配下に置かれてしまいます。
(3) ミタンニ王国
【ア】フルリ人
フルリ人は、コーカサス地方出身で紀元前2400年ころにはメソポタミア北部(ハブール川流域)に居住していた、系統不明のフルリ語を話す人々です。彼らは、陶芸、冶金術、馬術に長けていました。また、インドのアーリア人が信仰していた『ヴェーダ』の神『ミトラ』や『インドラ』、『ヴァルナ』といった神を崇めていあり、サンスクリット語で解釈できる名前が多いことから、アーリア人と重要な関わりがあると考えられている。
紀元前2000年頃、アッカド王国の崩壊後フルリ人はウルケシュを拠点として周辺を支配できるまでになりました。しかし、アッシリアに地方は強力な隣国がいくつかあり、まず『マリ』の支配下に置かれ、シャムシ・アダド1世の時代には古アッシリア王国の支配下となりました。古アッシリア王国の新都シュバト・エンリルはフルリ人の居住地帯に築かれたのでした。
この頃フルリ人は西に移動し、『アララハ』などに居住するようになりました。『ヤムハド王国』はアムル人の国でしたが、フルリ人も数多く住んでいました。また、アダニヤ沿岸のキリキアにも多くのフルリ人が住んでいました。
『ヤムハド王国』はヒッタイトに滅ぼされますが、逆にこれをきっかけに小アジアにフルリ人文化が伝播していくことになりました。
【2】ミタンニ王国
ヒッタイトがバビロニアを滅ぼした混乱に乗じ、フルリ人はハブール川流域ワシュカンニを首都としてミタンニ王国を建国します。
前1500頃に伝説的王キルタが現れ、ミタンニ王国が誕生します。
ミタンニはエジプトやカッシート王国と政略結婚を重ね、
アルタタマ1世王(6代)の娘はエジプト王トトメス4世と結婚し、
シュッタルナ2世王(7代)の娘ギルヒパはエジプト王アメンホテプ3世(トトメス4世の子)と結婚し、
アメンホテプ3世は、トゥシュラッタ王(9代)の娘タドゥキパとの結婚を強く望みました。残念なことに彼女が来る前にアメンホテプ3世は死んでしまい、タドゥキパはアメンホテプ3世の子、新王アメンホテプ4世(アクエンアテン)と結婚しました。タドゥキパは、アメンホテプ4世の2番目の后キヤ(KiYa)、あるいは王妃ネフェルティティであると言われています。
ヒッタイトが軍事的才能にあふれるシュッピルリウマ1世の代になり、周辺の敵を収めるとミタンニに攻勢をかけてきます。一度はこれを撃退に成功するものの、前1350年ころ、再び侵攻してきます。首都に迫るヒッタイトを前にトゥシュラッタは逃走しますが息子に暗殺されます。
前1365年には属国であったアッシリアにアッシュール・ウバリト1世(初代)が現ます。彼は、ヒッタイトによるミタンニ攻撃を機に独立します。
【3】ハニガルバド
分裂後のミタンニ王国を指して『ハニガルバド』と言います
トゥシュラッタ王の死後、シュッピルリウマ1世により、トゥシュラッタ王の政敵であり「フルリ人の王」の称号を持つに過ぎなかったアルタタマ2世がミタンニ王国の王としてまつりあげられます。
アルタタマ2世の子で次王であるシュッタルナ3世がアッシリアと同盟を結び、反旗を翻そうとしたため、シュッピルリウマ1世はこれを討ち滅ぼし、今度はトゥシュラッタの弟であるシャッティワザを王にします。
その後、シャットゥアラ1世、その子である王ワサシャッタと続きますが、アッシリア王アダド・ニラリ1世(4代)[前1307―前1275]の攻撃を受けアッシリアに臣従する時代が続きます。そして、前1270頃、ミタンニ王国は遂に完全に滅亡してしまいます。
【エ】フルリ人のその後
紀元前860年ころ、アナトリア東部で王国を形成した『ウラルトゥ』で使われたウラルトゥ語はフルリ語の近縁語です。したがって、ミタンニ亡き後のフルリ人が再結集してウラルトゥ王国を建国したとも考えられています。
(3)カッシート王国(前1500-前1155)
【ア】カッシート王国(バビロン第三王朝)
カッシート人は系統不明の民族で、古バビロニア時代にイラン高原・ザグロス山脈からメソポタミアに侵入し、都市国家『テルカ』(守護神ダゴン)を支配下に置き(前1720)、本拠を置いていました(ハナ王国)。
古バビロニアでは、イシンとラルサが幾度となく独立を企てます。その背後にはエラム王国がいました。その争いの中で傭兵として呼びこまれたのが彼らカッシート人でした。
古バビロニア王国を滅ぼしたヒッタイトですが、彼らは長期に渡ってメソポタミアを支配しませんでした。ヒッタイト撤退後の混乱を利用してバビロニアを支配したのがカッシート人であり、彼らの国をバビロン第三王朝(カッシート王国)といいます。彼らもまたシュメール文化と同化しようとしたのでシュメール系の人々も彼らの支配を受け入れました。公文書はアッカド語で作られたので、カッシート語はほとんど残っていません。
前1475には、ウラム・ブリアシュ王が『海の国』を滅ぼし、バビロニアを統一します。
アッシリアがミタンニ王国から独立し強大化すると、その攻撃を受けることが多くなり、前1225年にはカッシート王カシュ・ティリアシュ4世[前1232-1225]がアッシリアの捕虜となります。
その息子アダド・シュマ・ウスル[前1216 - 前1187]の下、カッシート王国は再び自立しますが、アッシリアとの戦いは続きます。
紀元前1160年、ザババ・シュマ・イディナ[前1160-前1158]が即位、アッシリアに敗北し領土を大きく失います。これをきっかけにエラムの攻撃を受け、バビロンが陥落。マルドゥクの神像をはじめ、ハンムラビ法典等多くの財宝がスサに持ち去られました。20世紀になってハンムラビ法典が発見されたのは(バビロンではなく)スサでのことです。
エンリル・ナディン・アヘ[前1157―前1155]が即位し、王朝復活をめざしエラムと戦うも敗れて死亡し、紀元前1155年バビロン第三王朝は滅亡しました。
【イ】イシン第二王朝(バビロン第四王朝)
その後、イシン出身のマルドゥク・カビト・アヘシュが新たな王国を作ります。彼らはエラムを撃退し、バビロンを奪還しました。
ネブカドネザル1世[前1124 - 前1103]は、エラムによって奪われていたバビロンの都市神マルドゥク神の神像を取り戻すことに成功します。
しかし、この国もやがてアッシリアに滅ぼされてしまいました(前1026)
4 前1200年のカタストロフ
前1200年ころ、地中海東岸一帯を席巻した大規模な社会変動が起りました。
その災厄の詳細については諸説あり、いまだ定まっていません。
アナトリア、レヴァント、エジプトに『海の民』と呼ばれる集団が侵攻しました。
それが直接の要因かは定かではありませんが、ヒッタイトやフェニキアの都市国家ウガリットが滅亡し、ギリシアのミケーネ文明も崩壊します。エジプトも海の民の攻撃を受け衰退していきます。
ヒッタイト崩壊の結果、鉄器文明がオリエント全体に広がるとともに、レヴァント地方ではヒッタイトの支配を脱したフェニキア人やヘブライ人が新たな国家を建国します。
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