第2話 古代オリエント編(2)メソポタミア:シュメールの時代
はじめに
文明の始まりの地メソポタミア。
最初に都市国家群を築いたのがシュメールの民でした。
ここでは、シュメール人の都市国家郡が領域国家へと移りゆく時代を紹介し
ています。
初期王朝時代と呼ばれる時代の末期、幾つかの都市国家を束ねる王が生まれ、
やがて歴史に名高いサルゴン王がシュメールを統一します。
彼の王国が崩壊すると、一時的に都市国家群は復興しますが、やがて異民族の
侵入によりシュメール人は歴史から姿を消すのでした。
(1) メソポタミアの都市国家
メソポタミアでは、チグリス・ユーフラテス川という二つの大河が定期的に増水し、洪水を起こしました。洪水が起こることで随時、土に栄養が与えられるので作物よく育つことになります。穀物一粒あたり収穫できる穀物の数量を収量倍率といいます。共和政ローマ期のイタリア半島での小麦の収量倍率が5倍程度だったのに対して、メソポタミアでは麦類の収量倍率が80倍近くあったといいます。
この生産力を背景として多くの民が集団で1か所に定住することが可能になり、『都市』が生まれることになりました。
他方、メソポタミアは樹木・鉱石に乏しい地域で、資源と呼べるのは土だけでした。そのため作物を輸出し、木材や金属を輸入する交易が発展することになります。
また洪水が起こることで『灌漑農法』や『治水』技術が発達し、大規模な土木工事が行うために強力なリーダーシップを持つ『王』が必要とされました。
古代オリエントの特徴として、各都市国家がそれぞれに守護神を持ち、王が神の名の下、神権政治を行っていたことがあります。
都市と守護神の例が
ウルの守護神 月神ナンナ
ウルクの守護神 愛と金星の女神イナンナ
ラガシュの守護神 ニンギルス
ニップルの守護神 主神エンリル
エリドゥの守護神 水と知恵の神エンキ
などです。
(2)先史時代から歴史時代へ
肥沃な三日月地帯では紀元前7000年ころに農耕文明が生まれました。当初は『天水農業』という降水に頼る方法でしたが、紀元前6000年ころになると、チグリス・ユーフラテス両河の下流域で『灌漑農業』が始まります。
紀元前4000年ころになると、シュメール人が最初の都市を建設します。
シュメール人は紀元前3200年ころには古拙文字という楔形文字の原型を発明します。これは世界最古の文字と考えられています。文字が生まれ、記録が生まれることで歴史時代が始まるのです。
歴史時代以前の考古学時代についてはここでは割愛しますが、簡単に時代区分を示します。
メソポタミアの考古学的時代区分
ウバイド期 (前5500―前3500)
ウルク期 (前3500―前3100)
ジェムデト・ナスル期(前3100―前2900)
初期王朝時代 (前2900-前2350)
(3)シュメール人の都市国家
メソポタミア文明で最初に栄えたのがシュメール人の都市国家です。
シュメール人は、系統不明のシュメール語を話す人々でバビロニア地方(メソポタミア南部)の南部シュメール地方を拠点として栄えました。
『ウル』、『ウルク』、『ラガシュ』、『ニップル』、『エリドゥ』、『キシュ』、『ウンマ』といった都市国家が有名です。
メソポタミアは土地が肥沃で農作物は豊かでしたが、木材・石材に乏しく、鉱物資源も取れなかったので周辺地域との交易で資源を確保していました。
彼らは楔形文字を使い、青銅器を用いました。青銅の原料となる鉱石は北のアッシリア地方やアナトリア地方から輸入していました。
なお、世界最古の鋳造貨幣は『リディア王国』で作られることになるので、この頃にはまだ存在しません。銀の秤量貨幣、つまり重さがバラバラな銀の塊を、その重さを計ってお金として使っていたということです。
シュメール人はビールを発明し、アルコールを飲む習慣を生み出しました。
また、初めてラクダを家畜にしたのもシュメール人だと言われています。
都市の中心に『ジッグラト』(聖塔)と呼ばれる神殿を作ったことも知られています。これが聖書に出てくるバベルの塔の元ネタだと言われています。前述のとおり、メソポタミアには石が不足していたので、ジッグラトも泥から作られています。
(3)ギルガメシュ叙事詩
ギルガメシュ叙事詩は世界最古の叙事詩、英雄譚であり、12枚の粘土板に記された物語として現代に残されています。最古の写本は紀元前2000年ころに作成されました。
その叙事詩の主人公がギルガメシュです(シュメール語では『ビルガメス』または『ビルガメシュ』。ギルガメシュはアッカド語)。
叙事詩上の英雄ギルガメシュですが、実在の人物なのでしょうか。ギルガメシュは『シュメール王名表』によればウルク第1王朝の第5代の王(紀元前2600年ころ)です。シュメール王名表はウル第三王朝時代に作成された粘土製の古文書で古代メソポタミアの諸民族の王朝の王をシュメール語で列記したものです。明らかに神話上の人物だろうという者と実在が確実視されている者が混在しており、そのまま信用することはできないシロモノです。
したがってギルガメシュ王の存在もまた伝説的ですが叙事詩に登場するキシュ王エンメバラゲシ(紀元前2800年ころ)や同時代のウル王メスアンネパダの実在が確認されたことで、ギルガメシュも実在したのではと考えられるようになりました。
ギルガメシュ叙事詩の内容については、またコーナーを作って詳しく紹介したいと思います。
(4)キシュ王朝からウルクのギルガメシュ王へ
シュメール王名表によれば、大洪水後、最初に王権を得たのがキシュであり、キシュからウルクへと王権が移ったとされます。
キシュ王朝(第1王朝)の著名な王が『エンメバラゲシ』(エンは称号。メ・バラゲシとも)であり、彼は『エラム』を征服したと伝えられています。『シュルギの讃歌』(ウル第3王朝の王シュルギ[前2094―前2047]が自ら作らせた讃歌)のひとつでは『ウルク王ギルガメシュがエンメバラゲシの頭を踏みつけた』と言う説話があることから、ウルクがキシュを征服したと考える説もあります。
また、エンメバラゲシの子は『アッガ』といいシュメール王名表によればアッガ王の後に王権がキシュからウルクに移ったとされています。
『ギルガメシュとアッガ』という説話によれば、ギルガメシュはキシュ王アッガに降伏を要求されたが、これを拒否し戦ったそうです。エンキドゥ(ギルガメシュ叙事詩に登場するギルガメシュの無二の友人であり怪物)の流した流言によってキシュ兵は動揺し、戦闘が始まると逃げ出してしまい、アッガ王は捕らえられます。ギルガメシュはかつて流浪の最中にアッガに助けられた恩に免じてアッガを解放し、恩を返したのでした。
このようなことからエンメバラゲジ~アッガの時代にウルク王ギルガメシュが実在した可能性は高いといえます。
なお、この当時シュメール最大の都市であったウルクの人口は最盛期8万人程度だったそうです。
※『エラム地方』 イラン高原南西部の沿岸地域。
エラム人の国があった。エラム人はたびたびメソポタミアに侵入し、逆にメソポタミアの王もエラムを侵略した。いわゆるライバル的な存在。
(5)ウル第一王朝
また、ギルガメシュと同時代の人物にウル第一王朝の創設者『メスアンネパダ』がいます。
シュメール王名表によれば、王権はウルク第一王朝の後にウルに移ったとされます。ウル第一王朝です。ウル第一王朝最初の王メスアンネパダが実在したことは考古学的に確認されているそうです。
メスアンネパダは『キシュの王』を名乗りました。これは実際にキシュを治めていたというわけではなく、当時キシュという都市が特別な意味を持ち、キシュさえも制覇する王という武名を誇る意味で用いられたようです。『キシュの王』の称号は後に出てくるラガシュ王エアンナトゥムも用いています。
(6)ラガシュ・ウンマ戦争
戦勝記念碑『ハゲワシの碑』によれば、前2450、ラガシュとウンマの間で、「グ・エディン・ナ」という土地の水利権を巡って争いが起こり、『ラガシュ・ウンマ戦争』と呼ばれる100年に渡る戦争が起こります。これが記録に残る最古の戦争といわれます。なお「グ・エディン・ナ」は『エデンの園』のモデルになったのではと言われています。
当時の『ラガシュ』は、ラガシュ、ギルス、ニナ・スィララ、グアバといった都市の連合国家でした。ウンマ王ウシュが、ラガシュとウンマの国境を定めた境界石を破壊し、侵攻してきました。これを迎え撃ったのが、『ハゲワシの碑』に称えられるラガシュ第3代王『エアンナトゥム』です。長い戦いの末、彼は勝利し再び国境線を元に戻し、境界石が置かれることになりました
彼はさらにウル、ウルク、ウルアズなどの都市と戦って勝利を収めたと伝えられています。
しかし、ラガシュ・ウンマ戦争は代を変えその後も続きます。
前2371年、ウンマの祭司『ルガルザゲシ』(ルガルは称号)が前王ウルイニムギナを倒し、王位を奪います。ルガルザゲシは、ラガシュのウルカギナ王と彼に加勢したウルクの両者を破り、シュメール地方を統一しました(前2330頃)。後にウルクに拠点を移した彼の王朝はウルク第三王朝と呼ばれます。彼の残した碑文によれば「日の昇る所から日の没する所まで征服し、下の海(ペルシア湾)から上の海(地中海)まで道を切り開いた」そうです。
ルガルザゲシの統治は20年続きましたが、残念ながら彼の王朝は一代で滅ぶことになります。アッカド王サルゴンが、ウンマを中心とするシュメール連合軍を破り、ルガルザゲシを捕虜としたのです。サルゴンに破れた彼は首に鎖をつながれてニップルのエンリルの門に連行され、その後、獄死するのでした。
前2300頃には、メソポタミア最大の都市は『ギルス』で人口8万人程度、メソポタミア北部の都市マリが人口5万人、かつてのトップであったウルクは人口3万人、ニップルが3万人、ウルが2万人と推定されています。
(7)ウルク王エンシャクシュアンナ
ルガルザゲシ王の登場から少し時代を遡ります。
『エンシャクシュアンナ』は、シュメール王名表によればウルク第二王朝最初の王ですが、実際は、ウルク第二王朝の終盤、アッカド時代に極めて近い時代の王であるとの説が有力です。
彼はキシュ王エンビク・イシュタルと戦い、勝利するとキシュの破壊を命じています。これが記録上最古の都市破壊命令です。当時、都市を破壊する行為は都市神の怒りを買う行為ですから、たとえ戦争に勝ったとしても当然避けられるべきものでした。
彼は、はじめて『国土の王』という称号を用いたことで知られています。
つまり都市の王という枠組みを外れシュメールの神々からシュメールの国土の支配権を委ねられた王という立場に立つことで侵略・征服を正当化しようとしたのです。
この称号は、ウンマ王にしてウルク王となったルガルザゲシに踏襲されることになります。エンシャクシュアンナ→ルガルザゲシ→サルゴンという覇者が生まれる中で、シュメール地方は都市国家の時代から、領域国家の時代へと移っていくことになるのです。
(8) アッカド王国(前2334-前2193)
『アッカド人』は、シュメール語とは異なるセム語系アッカド語を話し、シュメール地方から北にあるアッカド地方に居住した人々です。拠点となる都市はアガデです。
アッカド王『サルゴン』(前2334年―前2279年頃)はウルク王ルガルザゲシを破り、シュメール地方とアッカド地方を統一しました。さらにエラム地方(イラン高原南西部の沿岸地域)に遠征し4人の王を倒しました。
その後、メソポタミア北部の『マリ』、『エブラ』なども征服し、『四界の王』を名乗ります。
サルゴンとは旧約聖書の中での表記であって、アッカド語の名をシャル・キン(「真の王」の意)といいます。『サルゴン王伝説』によれば、サルゴン王の母は子供を産んではいけない女神官で、サルゴンを産むとユーフラテス河に流したといいます。その後、サルゴンはキシュの庭師に拾われます。世界各地で見られる『捨て子伝説』の最古の例です。
アッカドは彼の死後、孫である4代王ナラム・シンの代まで栄えましたが、その後衰退します。アッカド最後の王シャル・カリ・シャッリ(5代)は粘土板で撲殺され、死ぬことになりました。
アッカド王国の支配下でアッカド語の使用が強制されたので、バビロニア地方ではアッカド語が共通語となりました。その影響でシュメール語は次第に廃れていきます。しかし、アッカド人は文字を持たなかったので文字についてはシュメール人の楔形文字を用いていました。
後世、バビロニア王ハンムラビがメソポタミアを統一した頃にはシュメール語は完全に死語となっていたといわれています。代わってアッカド語が行政においてもその他文学においても一般化していました。
このように「シュメールとアッカド」は文化的にも一体化していき、『バビロニア』という一つの地方として扱われるようになります(バビロニアという名称の由来は後に誕生する都市国家バビロンですが)。
(9)異民族の侵入とウル第三王朝
アッカド王国崩壊後、シュメール人の都市国家が復興します。
しかし、メソポタミアの西方シリア地方の遊牧民であったセム語系『アムル人』(彼らはシュメール人の傭兵等として定着し、バビロン、イシン、ラルサ、マリといった都市を建設します)、エラム地方(イラン高原南西部の沿岸地域)の『エラム人』、イラン高原の山岳民族『グティ人』といった異民族が侵入し、メソポタミアは混乱の時代を迎えます。特にグティ人は「山の竜」と忌み嫌われました。
ウルク王であった『ウトゥ・ヘガル』はグティ人を撃退し、メソポタミアから駆逐しました。さらにウトゥ・ヘガルの配下・娘婿でウルの軍事司令官だった『ウル・ナンム』(在位前2115頃 - 前2095頃)が独立し、『ウル第三王朝』(前2112-前2004)を樹立しました。ウルは他のシュメール都市国家を統合し、メソポタミアを再び支配しました。ウル・ナンムは世界最古の法典『ウル・ナンム法典』を作成したことでも知られています(ウル・ナンムの子で次代の王がシュルギです)。
ウル第三王朝はアムル人とエラム人の侵入に苦しめられました。紀元前2004年、第5代王イビ・シンの時代にエラム人が侵攻し、戦いに敗れた王が東方に連行されるとウル第三王朝は滅亡してしまいました。
以後シュメール人は覇権を失い、バビロニアの諸民族と交わる中で姿を消してしまいました。
優れた収量倍率により穀物生産によって繁栄していたシュメール地方ですが、元々水はけの悪かった地質と気候の乾燥化などの要因から、塩害に苦しめられ土地が荒れて行きました。紀元前2400年頃とその300年後の前2100年ころを比べると収穫量は60%も減少したそうです。
さらに前2200頃、火山の大噴火があり地球規模の気候変動があったようです。
異民族の侵入は、この気候変動による食糧危機が背景にあったと考えられます。
雑談
バビロンが生まれる前にバビロニア地方という用語を使うのも違和感あるけど、そもそもオリエントだって後のローマ人がつけた名前だもんね。
まぁ、歴史ではそういうこといっぱいあります。『当時の言葉、当人の言葉』ではなく『できるだけみんなに分かりやすい言葉』を選択しているということですね。
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