第2話の下 雅行は振り返らない


「ここら辺だって聞いたんだけどなぁ」

 惟憲は辺りをきょろきょろと見回す。

 もう随分歩いたから、けっこうな山奥まで来た。おかげで足はもうくたくただ。


「もう、いい加減諦めろよ」

 惟憲は何と言おうと足を止めない。「素敵な女人探し」に興味はないが、このまま惟憲を置いて帰るのは気が引けて、その後を着いていく。

「いーや、姿だけでも拝んで帰らねぇと気が済まねぇ」

「お前まだ覗く気なのか」

「覗きとは失礼な!“垣間見かいまみ”は平安の世に男として生まれた醍醐味!いや!平安の世の文化だ!」

 “垣間見かいまみ”とは、家の中にいる女性の姿を、家の塀にできた隙間などを通して外から見ることだ。

 一言で言ってしまうと「覗き」である。

 しかし、別にこの行為は違法でも何でもない。この時代では男女が顔を合わせて出会い、それで恋愛に発展するなどということはまず有り得ない。親もしくは夫以外の男が面と向かって女人と会うことは、まず出来ないと言っていい。たとえ血の繋がった兄弟であったとしてもだ。

 それくらい女人が顔を見せるというのは簡単には許されないし、女人にとって顔を見せることは一大事なのだ。それは男女が三回も会えば、二人が結婚するという決まりになっていることからも分かる。面と向かって会うという行為は結婚を前提にしていることが一般的なのだ。そんな重大なことを誰とでも出来るわけはない。特に高い身分になればなるほど、その重大さは増していく。

 だからこそ垣間見の需要がある。面と向かっては会えない女人の姿を見るためには、外から「覗く」しかないわけだ。


 僕は相手の合意なくいかがなものかと思うけれど。


「僕は知らないからな。お前一人でやれよ」

 今までぷんすか起こっていた惟憲は急に表情を曇らせた。

「なぁ雅行。お前、本当に興味ないのか?」

「……興味ない。って前にも言ったよな」

「またまた~」

 僕は思わず深い溜息をつく。こいつに僕が何を言っても駄目だ。

「お前が何をしようと、お前の自由だ。僕がとやかく言うことじゃない。だけど、それに僕を巻き込まないでくれ」

 恋愛に興味を持つことは、男であれば、いや女人にとっても至極当然のことなんだろうと僕も分かっている。だから惟憲のしていることは悪いことじゃないだろうし、惟憲みたいな男は他にもたくさんいる。

 しかし、恋愛など、下手すれば足をすくわれることにしかならない。惟憲が尊敬しているらしい光源氏だってそうだったのだから、僕達だったら尚更だ。なぜそんなことを自ら進んでやらなくてはいけないのだろう。


「じゃあ雅行が興味のあることを教えてくれよ!」

「そんなの、ない」

「またまた~ってこれ今日二回目だよ。お前はいつも、何に対しても“興味ない”って言うけどさ、お前だって欲しいものとか、やりたいこととか、何かあるはずだろ?」

「だから、そんなのないって言ってるだろ!」

  突然、山の中に響いた大声に惟憲が目を見開く。その声のもとである僕も自分で驚いていた。


 こんなにキツく言うつもりじゃなかった。もっと穏便に……。


「惟憲、僕をお前と一緒にするな。僕は……」

 惟憲とは違う。惟憲だけじゃなくて他の誰とも違う。少しでも足をすくわれる可能性があるようなことはできない。


 この世は己の領分を守ることが全てだ。僕の領分はいま与えられた仕事を全うすること。それ以外は何もない。

 身の丈に合った行動をしなければ、必ず消される。

 そうなれば、傷つくのは自分だけではないのだ。


 ……僕には守らなくちゃならないものがある。

 それを守るためには、ほんの少しのリスクでも避けて生きていかなければいけない。

 だから、少なからず僕は、ほんの少しでも足を掬われる可能性があることは絶対にしないと、決めていた。


「……雅行?」

 惟憲が僕の表情を窺う。僕はその視線から逃げたくて視線を逸らした。

「……そういうわけだから。僕はもう帰る。悪いけど行きたいなら一人で行ってくれ」


「おい雅行!」


 僕はその声を背中で聞く。


「本当に……それでいいのか?」


 惟憲の視線が痛いくらい、背中に刺さる。それを見なかったことにするのは、苦しくてしょうがなかった。

 でも、それでも。

 僕はやっぱり振り返らなかった。


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