第3話 壁越しの出会い


 惟憲と別れて、僕はゆっくりと山道を歩いていた。

 すぐに山を下りてもよかった。だけど、どうしようもなく居心地が悪い。

「はぁ……惟憲に悪いことしたかなぁ」

 木漏れ日が降り注ぐ先を見上げて、僕は溜息を吐いた。


「何で惟憲もあんなに諦め悪いかな」

 今まで惟憲は帰り道で待ち伏せしては何度も同じように僕を連れ出そうとした。その度に僕は惟憲の誘いを断り、それが理解できない惟憲と多少の差はあれ今日のような会話を繰り返してきた。

 それなのに惟憲は懲りるどころか、今日もこうして僕を待っていた。

 惟憲はそこまでして僕に女人に対する興味を抱かせたいのだろうか?そんなことをして惟憲は何がしたいんだろう。


 たとえ惟憲が何をしても、僕の気持ちが変わることはない。

 必要最低限のことだけをして生きる。それ以上のことを求めるのは、僕にとっては贅沢に過ぎるし、求めようとも思わない。



 見上げた木々の葉はみずみずしい黄緑色に染められている。まだ若い葉なのだろう。

 垣間見には参加しないけれど、惟憲に着いてきたのはよかったかもしれない。

 色の薄い葉の間から溢れ出す、春の木漏れ日に当たっていると、日頃溜まりに溜まったストレスも、少しだけ洗い流される気がする。

 毎日の朝廷勤めには心身ともに疲れ果てていた。この国のトップというべき大臣の職は全て藤原氏の一族が担い、それ以外の官人には入る隙さえない。しかし彼らはそれで飽き足らず、さらなる地位と権力を得るのに躍起になっている。たとえ彼らが間違っていたとしても逆らう者は誰一人としていない。それはおかみですら例外ではない。

 権力を欲して躍起になっているのは、五位以上の官位を持つ貴族達だけではない。僕がいるただの役人の世界でも同じことが起こっている。勝手にやってくれと思うが、僕にとっても全く無関係とはいえないのである。

 彼らより下の役人達は、彼らの機嫌を取るために人を陥れることさえ辞さない。僕と同じ、ただの雑用係に過ぎない使部でさえ、自分が出世するために、手段を選ばない人間や人を陥れるような人間がいて、気を抜けるような時間は一瞬たりともない。ちょっとしたミスであっても、それを理由に僕のような末端の人間を朝廷から追い出すのは造作ないことだ。

 僕が朝廷から追い出されるということは、一家の存亡にも関わる。代々、朝廷で下級役人の地位をなんとか継いできた僕の家は、風が吹けば飛ぶような力無きものだ。僕の家には僕以外に出仕できる人間もいないし朝廷での職を失ったらおそらく家族はみな路頭に迷ってしまうだろう。

 僕の行動一つで、一族を危険に晒してしまうのだ。だから勝手な行動はできない。自分が何をしたいとか、そんな「気持ち」よりも優先すべきものがある。

 

「はぁ……」

 体の力を抜いて、ぼんやりと頭上を仰ぐ。木漏れ日が降り注ぐ、その先には青い……青過ぎる空が見えた。

 木の葉の隙間から見えるのは、ほんのわずかだけど、本当はこの世界を覆うほど広い空がそこにはある。それは知っている。


 もし。この地上から飛び立って空に辿り着けたら。

 何にも遮られることなく、飛ぶことができるだろうか。

 そんな考えが一瞬だけ頭をよぎった。


 それは実現するはずがないと僕自身が一番知っていた。

 空があることは知っていても、その場所に届くことはない。


 永遠に。


 そう知っているのに、手を伸ばすことなんて僕には出来ない。


「……もう、行くか」


 僕は苦笑いした。

 そもそも、こんな考えが浮かぶなんて、僕も相当疲れてるんだろう。


 それを証明するかのように、立ち上がったら急に変な感じがした。地面から足が離れたように感じる。宙に浮いているかのようにふわふわとして、視界に入る木々は揺らいで見える。

 急に頭がぼーっとして、意識が遠ざかっていく。立っていられない。

 これはマズい。

 薄れゆく意識の中で直感的に僕はそう感じた。

 ここまで来るのに本当に歩いた。喉がからからで干上がってしまいそうなのに一滴も水を飲めていない。いま原因として考えられるのはそれくらいしかなかった。

 頭を巡らせてみるけれど、いまは意識を保っているのがやっとの状況で、それ以外は何も考えられない。

 これはもう自分一人ではどうしようもない。誰かに助けてもらわなければ、どうしようもできないけれど、助けてくれる当てもないし、ただでさえこんな山奥で人がいる可能性自体低い。現に山に入ってからここまで歩いてきたけれど誰にも会わなかった。

 でも僕は歩くしかない。少しでも歩かなければ誰かに出会える可能性すら少なくなるから。

 歩き続けていれば、誰か見つけてくれるかもしれない。

 僕はそんなわずかな期待を持つしかなかった。



 しかし、最初からわずかしかない、その期待も、一時間も歩いていれば完全に潰えた。

 体力と意識の限界に達すると、もう何も動かせなかった。体はもちろん、心すらもどうしたって立ち上がることができない。


 もしかしたら。

 さっき想像したことが実現したのかもしれない。

 死んだら何に縛られることもないから。この重過ぎる使命も、こんな僕自身にも、何にも縛られない。

 そんなわずかな思考すらも、だんだんと僕の手から離れていく。でも僕はそれを受け入れたくなくて、爪を手のひらに食い込ませた。その痛みのおかげで僕は辛うじて意識を保っていられた。

 冗談じゃない。何だよ、これ。

 自分に課された役目を放ったまま死ぬなんてできるものか。家族を守ること、それが僕が存在する理由なんだ。こんなところで死んだら、誰が家族を守るんだ。僕は何のために生まれてきたんだ。


 しかし僕の意志が奇跡を起こすはずなんてなく。

 やがて痛みすらも感じなくなっていった僕は、力の抜けた自分の体がごろごろと斜面を下っていることすらも遠くに感じながら意識を失った。


「……ですか!?大丈夫ですか!目を開けてください!」

 どこからかそんな声が聞こえてくる。


 ゆっくりと目を覚ますと、辺りは暗くなっていた。月の光が木々の合間を縫って落ちてくる。

 僕は何をしていたんだっけ?

 あぁ、そうだ。僕はここで倒れたんだった。空がもう暗くなっているということは、僕は夜になるまで目を覚まさなかったということか。

 ……死んではいなかったことにちょっと安心した。


「大丈夫ですか!」

 それが僕に向けられた言葉であることにようやく気付いた。


 辺りを見てみると、僕の右隣に緑色の何かがそびえ立っている。

 それに触れてみると、ひんやりとした温度とともに、つるりとした感触が僕に伝わってくる。

 僕はその感触で、緑色の何かが竹だということに気づいた。

 よくよく見てみると、その竹が縦横に織り目を編んでいたから、僕はそれが透垣すいがいとよばれる竹垣だということに気づくのに、それほど時間はかからなかった。


 透垣すいがいがここにあるということは、その奥には家がある、ということだ。

やはり、この中には誰かが住んでいるらしい。

 現に声はその透垣の向こうから聞こえてくる。


「だ……いじょうぶです」

「あ……!返事した……!あぁ、良かった!ずっと呼びかけても答えなかったから……!」


 透垣の向こうの声が、少し、明るくなった。

 僕はその声の主が誰なのか、そんなことを考える余裕がなかった。

 誰だっていい。僕を助けてくれるなら。


「す、みませんが、水……もらえませんか?」

「水ですね!今持ってきますから!」


 ばたばたという足音が聞こえる。

不思議だった。

聞き覚えなんてないのに、知らない人のはずなのに、僕はあの人の声をずっと聞いていたような気がするのだ。


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